満足(クラッシュタウン)編、良い話じゃん

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確定申告でe-taxが言うことを聞いてくれなかったり、地震でパソコンが馬鹿になったり、気圧のアップダウンで倒れたり、散々な日々が続いていましたが、最近やっと落ち着いたようです。

そんな中、作業中ほぼ流しっぱなしの遊戯王5D'sもついに折り返し地点を越え、伝説の「クラッシュタウン編」に突入しました。

伝説って?「ああ!」

DXはまだ見てないんでこれの元ネタ知らないんですがデュエリストの挨拶らしいので、必要な教養として覚えました。

クラッシュタウン編がなぜ伝説と呼ばれているのか、放送当時は噂と切り抜きと音MADでしか知りませんでしたが、それでも十分伝説と呼ばれるにふさわしい凄い……変でした。

「面白い」「シュール」「笑える」じゃないんですよ、ただひたすらに、「変」。
それは場面の描き方であったり、不思議なガンアクションであったり、身体の頑丈さであったり、独特のセリフ回しだったりするんですが、とにかく「変」。
ツッコミ不在でボケ倒すギャグマンガを想像してください。読者がツッコミを入れることで一体感が生まれるあの面白さがクラッシュタウンにはありました。
そして遊戯王はどうやらギャグマンガではなく、脚本家の方が笑わせよう、と思ってセリフを書いているわけでは無いようなのです。
更に、声優さんたちがそのセリフをまた真面目に、そして遊戯王名物の大声で演じるわけです。声が小さい奴はデュエリストになれません。
大声でエースモンスターを召喚できて初めて一人前のデュエリストとして認められるのだと私は今作を通じて学びました。
今、自分で書きながら認知の歪みがあったことに気付きましたが、これが遊戯王の「変」さの正体です。

カードゲームで大声を出す必要はない。声が小さいとカードゲームしちゃいけないわけない。エースモンスターを召喚するときに大声を上げなくてもいい。

当たり前のことですが、どういうわけか私はもう、当たり前のことに違和感を覚える頭になってしまったのです。
他にどういう言葉を当てはめればいいのかわかりませんが、カッコいいBGMに合わせて大声で叫ばれるとなぜか「そういうものだ」と納得してしまう、あの奇妙な感覚を私は「変」だなあと思います。

その「変」さが突き抜けた……いや、弾けたのがクラッシュタウン編、変の集大成と言っても良いでしょう。このシリーズは伝説となりました。

慣れないし、ルールはわからない

遊戯王の「変」さ、ギャグマンガがどうして面白いのかまったく知らない人に説明する大変さに似ていて疲れますね。異文化交流の難しさ、人が手を取り合って隣人を愛する難しさに似ています。

しかし、繰り返しコミュニケーションを続けることで人は徐々にお互いを分かり合っていけるものです。私も、遊戯王とそういった関係を築き上げてきたと思っていました。

「なんでバイクに乗ってカードゲームするの?」

から始まったお付き合いも80話以上。もうそんなことでイチイチ驚いたりしませんよ。数話前にカードゲームで世界の滅亡を防いだところです。山場は越えた、もうどんな突拍子もない話をされても「遊戯王くんっていつも面白いこと考えてるね」って微笑む自信がありました。私は自分の認知がもう、最大限捻じれ切っていると思い込んでいました。

私の考えが甘いことは、ご自分でBGMを演奏し、徒歩で登場する鬼柳京介さんに思い知らされてしまいました。
薄々感じていたんですよ、今日のセリフ回しちょっと変だな(脚本やすゆきかな)って思って、でも許容内の変だと思っていたんです。
……まだまだ、世の中には私の予想を遥かに超える価値観が存在いたしました。

そこからもうずっと「変」でない瞬間が一瞬たりとも存在しない、心休まらぬジェットコースターです。次から次へと現れては後ろへ流れていく「変」に混乱し続け、終わる頃には混乱疲れというか、脳が全力疾走したような心地よい疲労感で満足いたしました。

何かやる気が出ない、ボンヤリする、そんなときは遊戯王5D'sの86話~92話までを見ることをおすすめします。流し見ではなく、真剣に考えながら見ると、非常に疲れるので見終わった後は頭がすっきりするしよく眠れます。

慣れてきたと思ったら「これぐらいじゃ満足できねえ」と言わんばかりにスピードを出して向こう側の景色を見せてくれる、遊戯王のそういうとこ、おもしれー女だなって思います。男だけど。

鬼柳がシリアスなキャラだったこと

チームサティスファクションのリーダーこと鬼柳京介ですが、満足するとかしないとか、一人だけ妙に味のある作画だとか、お洒落なジャケットだとか、変なところばかりが目について彼自身がどんな人間なのかやっとわかったような気がします。
そもそも、クラッシュタウン編こそ、鬼柳京介の物語であり、彼の抱える暗い物が描かれている筈なのに、どうしても画面で何かしらおかしなことが起きていて頭に入ってこないのです。
そもそもカードゲームで命のやり取りをしていることを、シリアスに受け止めなければ先に進めないので極力作中の変な要素も深刻に捉えながら見ていこうと思います。

鬼柳京介はかつてチーム・サティスファクションという、不良グループのリーダーでした。
サテライトというスラム街で生まれた彼らは、クソみたいな街に生まれたのは仕方ない。だからここで満足するしかねえと地元の不良グループをやっつけて統一していきます。

スラムではよくあることなのですが、東京の学校に通っていた友人には「なんで?」と問われたので一応説明いたします。
田舎のスラムにおいて一生地元から出る予定のない不良さんは「○○最強の男」という称号に憧れ、日夜喧嘩に励んでおりました。
実際に私の弟も同学校に「○○最強の男」がいることをとても誇りに思っているようでした。
若さと元気と野心を持て余した少年たちは、この街の外へ出ればいいのだけれど、自分たちが一生この街で生きていくしかないという絶望をある日自覚します。
サテライト程悲惨な理由でないにしろ、実家のイザコザがあったり、金銭的に無理できない状況であったり、農家の長男であったり、彼女が妊娠しちゃったり、様々な理由で井の中に閉じ込められた蛙たちは、それじゃあせめてこの井戸の中テッペン獲ったろうとなるのです。
井戸の中であっても、一番高いところなら何か変われるかもしれない、見えるものが違うかもしれない、満足できるかもしれない。そういった希望を持つことは自然なことだと私は考えます。

鬼柳さんはそんな、普遍的な野心を持った少年でした。

彼が特別であったのは、人を焚きつける言葉が上手かったところではないかと思います。虐げられてきた少年たちを共感させ、心を焚きつけるのに最適な言葉を本心で吐き出すことができる。
そして、現状に行き詰っている少年たちに指針を与えることができるのも才能だと思います。彼は彼がやりたいことをやるために、仲間に声をかけているだけなのですが、自分に何が出来るかわからない、少年たちにしてみればはっきりと目標を持って自分たちを導こうとしてくれる鬼柳京介は眩しく映ったことでしょう。

鬼柳は他の子ども同様野心があって、少しばかり賢かった。出会ったときにその眩しさに目が眩んで盲目に信仰してしまう気持ちもわかります。
しかし、傍に居ればいるほど、鬼柳の魅力を感じることは難しくなります。
「お前はそんな奴だと思わなかった」「もうついていけない」と言う風に、彼の周りからは人がどんどんいなくなっていきます。
鬼柳はその度に酷く傷ついて、そのくせ理由を理解できないまま悲しい最期を迎えることになりました。
その辺の生々しさが私は大好きで、鬼柳さんの好きなところなのでいっぱい話したいなと思います。

鬼柳さんはなぜ去っていく仲間たちに裏切られたと感じ、破滅的な最期を迎えようとしたのでしょう。
そもそも鬼柳さんの行動原理は単純で、満足したかっただけなんです。その満足のためには、大好きな友達と一緒が良かったのです。
鬼柳さんはサテライト統一というひとつの大きな目標を達成しましたが、その先、どうしていいかわからなくなってしまい、自暴自棄っぽくなってしまいます。
その鬼柳さんの姿を見て失望したり幻滅したりしてチームメンバーは去っていくのですが、鬼柳さんからしてみればなぜ彼らが去っていくのかわからない。だって、鬼柳さんの目標は達成されていないのです。
サテライト統一の後、ただの暴力におぼれていた鬼柳は燃え尽き症候群の惨めな残りカスみたいに見えなくもない。
しかし、そもそも鬼柳京介は燃え尽きていなかった。他のメンバーがテッペンだと思った場所は、鬼柳京介にとっては通過点に過ぎなかったのです。
鬼柳は自分が辿り着きたい場所へ向けての努力、当たり前の日常を送ろうとしていたのに、友達はどんどん去っていく。昨日まで一緒に笑い合っていた仲間が、覚めた目で「いいかげんにしろ」という。
鬼柳本人はこれに酷く困惑しますが、鬼柳の仲間にしてみれば、たまったもんじゃないのは明白でしょう。生きる事すら簡単には済まないスラムでの生活で、ある程度の安定を手に入れたのに、危険を冒してまでどんどん先へ進もうというのだから。しかも理由が、満足したいという。彼の満足は一体いつ訪れるのか。
結局鬼柳さんはかつての仲間たちを恨みながら獄中死を遂げますが、一方では澄やかに、仲間たちとラストデュエルをしたいなんて切ない夢を見ているんですよ。

彼をこんな最後に追いやってしまったものはなんでしょう。
生まれについてはいくら呪ったところでどうにもならない。環境も彼の力ではどうしようもなく変えられないものだった。
なら、彼の傍に居た友人たちだったら、鬼柳を止める事ができたのかといえばこれも難しいと思います。
ジャックやクロウは鬼柳に対して利害や信念の一致で手を組んでいました。
信念の一致といっても、鬼柳の信念を彼らがどこまで理解できていたのかわかりかねるところです。
ジャックやクロウの読解力に問題があるのではなく、鬼柳が自分を大きく見せるのがやたら上手いことがこの問題を引き起こしたのではないでしょうか。

皆、鬼柳に夢を見ちゃっていたのです。
なぜか過大評価されてしまう人というのは往々に居ます。
鬼柳京介は周りの子どもたちと変わらない、今をどうしても受け入れられなくてもが居ているひとりの少年でした。
ジャックもクロウも遊星でさえ、彼が自暴自棄になるまで気付かなかった。
鬼柳は初めから自分らしく生きてきて、周りの仲間たちも自分が認識しているように、鬼柳京介を理解していると信じていました。
仲間たちが認識している鬼柳京介と、鬼柳京介が認識している自分自身の像が大きく乖離していたから、仲間は自分の認識とズレてしまった鬼柳に失望したと感じ、自分のことをわかってくれていたと思っていた仲間の拒絶に鬼柳は裏切られたと感じたのです。

人間関係がこじれる時にこういったことはよくあることで、特別な出来事だとは思いません。
そのこじれ方はむしろ現実に近く、嫌な生々しさすら感じて「変」ではない。
男性、というか男の子らしい言葉の足りなさ、薄情さと、物分かりの悪さが鬼柳の回想にしっかり描かれている(これはダークシグナー編だったかも)。
唯一鬼柳の傍に残った遊星の不器用な献身も良い。
仲の悪い両親を必死に繋ぎとめようとする子どものいじらしいけれど何の役にも立たない努力みたいだった。
ここで遊星の精神的な幼さ、実際幼かったんで年齢相応の幼さが現れたのが良かった。
遊星はこの場面ずっと戸惑っていた。鬼柳のやりたいことをやらせてあげようと、意志を尊重するようにしてどうしていいかわからない自分と向き合わなかった。
鬼柳のことを理解できなかった遊星が悪いという話ではないんです。
この場面は、子どもだけで解決できない問題があるという常識みたいなものを思い知らせてくれるいいシーンだと思ったんです。
そして私はそういう問題に直面した子どもが戸惑う顔が大好きなので遊戯王にありがとうを言わなければなりません。

ただ、もし鬼柳が暴走せずに済む可能性があったとしたら、彼より幾つか年上で俯瞰的に物事を捕らえられる大人が一人いてくれたらと思いました。
いなかったからこのお話は面白かったんで全然いいんですけど!

死神と再生

色々あって鬼柳さんは過去の行いを悔い、(比喩でなく)西部劇の荒くれものたちが最期にたどり着く掃きだめのような街、クラッシュタウンにたどり着きます。
そこで用心棒のバイトをしつつ自分を殺してくれるデュエリストを待っていました。緩慢な自殺です。
鬼柳は、自分が引き起こした事に責任を感じていたので、極力人と関わらず、嫌われるような態度を取り、BGMすらご自慢のハーモニカで自前で用意するミニマリスト生活を送っていました。

ゴミのように捨てられること、他の命と同様に雑に殺されることを願いながら彼はまた、人に夢を見られてしまいます。
これは彼という人間の宿命で、どれだけ人を避けようと、どんなに悪党になっても、憧れられてしまうカリスマを持って生まれてしまったのです。
自分なんかのために命をかけるなと悲痛な言葉を発しても、死にゆく人は笑顔で思いを託していくのです。
そんな価値はないと、いくら言っても彼の声は届かないのです。

何を言っても聞かない愚かで優しい人たちに心を動かされ、結局鬼柳は、逃げることをやめて、人の声に応える道を選びました。
自分を慕う街の子どもたちの期待に応えることができた時、彼はやっと満足する事ができたのです。

かつて、自分の価値や乗せられた期待の重さを知らず、何もかも失った少年は、相変わらず勘違いされ夢を見られ続けながらもその期待を背負う覚悟をします。
いつか、自分が本当にその夢と同じ価値を持つ日まで、彼は戦い続けることでしょう。心から満足できるその日まで。

嘘はついていない

鬼柳の心情を考えながらクラッシュタウン編を振り返ってみて、自分が書いたことは推測や見落としだらけだけど意図して嘘をついたりはしていないと思うんです。
でもなんか……これだけ書いてもクラッシュタウン編の良さの一遍も語れなかった気がします。
実際にクラッシュタウン編をご覧になった方がいらっしゃったら、ぜひご感想をお聞かせください。
さらに差し支えなければ、この文章がクラッシュタウンの紹介文として「変」かどうかジャッジして欲しいです。

最後に今回の写真ですが、実家でスイカ接ぎという作業をしたのでその写真です。
かぼちゃの双葉の上を削って、スイカの双葉を差し込んでいくという作業なのですが、畑いっぱいのスイカひとつひとつにコレをやるのでなかなか途方もない作業です。
なんでこんなことをするかというと、スイカの連作被害(同じ畑に毎年同じ作物を植えると良いのができなくなる被害)を減らすためにかぼちゃを使っています。かんぴょうの時もあった。

キメラみたいで可愛いなと私は思う。
かぼちゃに対して罪悪感を抱かないで美味しくなってくれるスイカは偉大です。

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