生き残ってしまった子どもたち

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遊戯王5D’sの感想文です。
ダークシグナー編が終わったあたりまで見て、面白かったので長めの感想文が書きたくなったので書きます。
他のアニメ・ゲーム等の作品と比較することがあるので、ネタバレしたらごめんなさいね。

生き残ってしまった似てるやつ

遊星の親父は研究者で、やってた実験を同僚にパクられた上に大失敗を起こされて、地元を焼け野原にされたということがわかります。
遊星は爆発ギリギリまで現場にいたのですが親父の機転でなんとか生きながらえることができました。
彼は生き残ってしまったのです。

罰を受けるべき(と本人が思い込んでいる)罪を抱えながら生き延びてしまった子どもである遊星に、既視感を覚えました。

Fate/Staynightの衛宮士郎、テイルズ・オブ・ジ・アビスのルーク(断髪後)、輪るピングドラムの三兄弟……まだまだいる気がするんですが、パッといくつか出てくる程度に生き残ってしまった子どもというのは物語のテーマとして選ばれる、魅力的な設定なのだと思います。私も実際好きだしね!

じゃあその魅力って具体的にどういうところなのかな?と考えました。

生き残った≠生き残ってしまった

生き残ってしまった、というのは生き残った、とは大きく違います。
生き残って「しまった」罪悪感が常に付きまとい、生き残ったものにある、生命を手にしたという自信がない。
だからどこか自分に対して投げやりな態度を取っている。
遊星も、仲間のピンチに迷わず飛び出していく子ですが、本人は絆って言い張るけどあれは自分の命に価値があると思ってないから簡単に投げ出せるやつだ。

生き残ってしまった子どもは、欲望が希薄で、やりたいことも漠然としている。
欲望が希薄な人間は利用されやすい。
自分より相手の方が価値のある人間だと無条件に信じているから、相手の欲望を叶える方が正しいと考えがちだから。

遊星も「みんなのために」身体を張ってきた。キングにカードをパクられたり(遊戯王の世界なのでカードやデッキが命より大切であるという前提があります)、サイコデュエリストのアキさんから薔薇の鞭でシバかれたり触手攻めにあったり、鬼柳さんには誤解で恨まれたりとか、何かと痛い目に遭いがちです。
けれど、遊星はそういう時に人を恨んだり憎んだりしないんですよね。
アキさんのデュエルが特に顕著だなーって思ったんだけど、自分の命を落としかねない状況でも、相手の心に傷があったら、その傷と同じ痛みを受け止める覚悟で向き合うの。
アニメだから死にはしないと思っても、ぞっとするような献身だった。アキさんと別にお友達だったとかじゃないのに、よくそこまで出来るなと。

遊星がそういう態度だから、彼の周りの人間は意識的に、無意識的に利用する。
それを当たり前のように受け取って対処していく遊星は、見ていてちょっと怖かった。
ただ、主人公であり、仲間思いである、という優しい言葉でその恐ろしさは表立って語られることは無かった。
かつてその不気味さを主題にした作品があった。Fate/Staynightで、主人公の衛宮士郎のことだ。

正義の味方

衛宮士郎も生き残った子どもで、大きな災害の中、生き残ってしまったことに罪悪感を持っていた。自分を助けてくれた男が、とても嬉しそうな顔をしていたから、正義の味方になりたいと志し、そのために生きていきます。
なんだかとても良い話っぽいのですが、作中では衛宮士郎の違和感がこれでもかと描かれているのです。
自分よりも圧倒的に力が強いけど「女の子だから」セイバーを守ろうと奔走して死にかけたり(ルートによっては本当に死ぬ)、見ている方は「お前じっとしてろ!!」と言いたくなるような士郎の行動の数々。
そして、それを第三者が異常者だとはっきり指摘します。
私たちが思っていた、彼への違和感は他の登場人物によってはっきりと言語化されてゆきます。衛宮士郎は、自分の異常性をそうして思い知ることになるのです。

末路

だからといって、衛宮士郎は変わりません。
ルートによっていくらか変化はしても、彼の行動は常に誰かのためで、自分の命を顧みないものでした。
なんかもうどうしようもないのです。

誰がどう言おうと、生き残っちゃった子どもは、自分のために生きることができない。それは呪いのようなものなのです。

輪るピングドラムというアニメがあるのですが、あれも生き残っちゃった子どもたちの物語でした。
父母が起こした事件が原因で社会から冷たいまなざしで見られる三兄弟が、助け合って生きていこうとするのですが、なかなか上手くいきません。

それぞれが正しいと思って行った行動が相手を傷つけ、空回り、大きな事件に繋がっていく。
誰かを愛しても、救いたくても、なぜか上手くいかない。

生き残ってしまった子どもは、物語という枠の中で幸福に生きることができないのです。
その理由を、ピングドラムでは作中劇で解答します。

神様はこうおっしゃいました。
「だってその方が面白いから」

ハッピーエンド

物語に対して、神様とは作者とそれを見つめる私たちに他なりません。
彼らが苦しむ理由は結局のところ、私たちがそれを望むからなのです。
視聴者が望む限り、供給者は望むものを与え続ける。
だから生き残っちゃった子どもたちには試練が与えられ、苦しまなければなりません。
そしてその試練や苦しみこそが私たちの「愛」のかたちなのです。

なんやかんやで生き残っちゃった子どもたちに試練や苦しみを与えながらも、私たちは同じ口で「幸せになって欲しい」とか抜かします。
それも嘘じゃないんです。ピングドラムからの引用が多くなりますが、そしてこれはうろ覚えなのでアニメを見て頂きたいのですが(一番最初のシーンなのでわかりやすいです)「愛のために自己犠牲をしたご褒美」を製作者は用意してくれるものなのです。
例え「いやこれは救いじゃないだろ」と視聴者が思うようなものであっても、それは製作者の「愛」が私たちと違うかたちをしているから仕方がないのです。諦めましょう。納得するかたちが見たければ同人誌を作る。これが俺の解釈だ。

とはいえ、やっぱり作品の中で、自分が思うかたちで幸せに笑う遊星を見たいものです。
まだまだ三分の一?ぐらいしか見てませんが、彼の道行きに幸多からんことを祈ります。






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