松本人志さん再構築計画~プランB~

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コラム
前回は、プランAとして、バラエティー番組を考えてみましたが、今回は、まじめな番組の企画アイデアです。

NHK教育番組、夜8時くらいからの番組としていかがでしょうか?
NHKでなければなかなか難しいかと思うのですが、過去のダウンタウンの番組、他局のものまで収集し、そのヤバい部分を検証していく。

社会学者の人、宮台教授などがテレビ慣れしていてよろしいかと思います。
水道橋博士とかも一緒だと楽しそうですね。最近の私のお気に入り、岡田としおさんもいいですね。

その過去の昭和的「ヤバい」映像をみんなで観て、検証する。
まっちゃんも、もちろんその場に同席していただきましょう。
そして、「何が悪いのか」「何がいけないのか」を洗い出します。
同時に「これがヤバいとされてしまう令和のヤバさ」も洗い出します。

そのうえで、この昭和のヤバさを令和にふさわしい笑いに転換するには、どうしたらいいのか?ということを真面目に検証しあうわけですね。

そして岡田としおさんが言う、ホワイト社会のヤバさの中でお笑いをどうしていけばいいのか、お笑いの未来像を作りあげていくのです。

万人の笑いが統一感なくなっている時代であるからこそ、みんなが知っており、みんながおもしろいと認めている松本人志の視点が興味深いのです。

お笑い、エンターテイメントの新しいポリシー、ガイドライン的なもの、現代の笑いと炎上の境界線ギリギリはどこかということを見極めていく、バランス感覚を養うのです。前向きな企画ではないですか。

松本人志さんにとっても、どの部分がNGなのか、で、NGとNGじゃないギリギリのラインはどこなのかということを客観的に分析するよい機会になるのではないでしょうか。
これからタレントやお笑いの世界で活躍していこうとする若い人たちにとっても参考になるでしょう。どこまでがOKでどこからがNGなのかが見えてくれば、それを炎上の危険を伴わず笑いに応用することが可能になるからです。
若い人間にとって、最初の躓きがデジタルタトゥーになってしまうリスクは避けたいところです。
ですが、そんなおっかなびっくりの芸では、当然、笑えません。

この場に、ジェンダー研究などしている女性は必要ありません。
真面目にお笑いの境界線を見極める目的なので、ジェンダー研究はいらないです。

お笑いというのは、時代を映す鏡です。
「今」起こっていることを、別の視点から見て、「おかしみ」を味わうことなので、ジェンダー研究をしている「被害者」の視点、女性の立場からの真面目な研究は、その「おかしみ」を味わうためには不必要です。

「おかしみ」のネタとして、「女性というのはー」「だから男っていうのはー」というステレオタイプの女性像を演じてくれる研究者がいたら、スパイスとして面白みがあると思うのですが、これに協力してくれたり、賛同してくれる研究者はいないだろう・・・。

笑いの発生ポイントというのは、かなりギリギリの境界線上にあるのです。
そのギリギリのラインを極めようとすれば、そしてまた笑いをコントロールしようとすれば、発狂します。

過去に何人ものギャグマンガ家、漫才師がこの罠にかかり、破滅しています。
漫画の世界は、これがかなり顕著かもしれません。
イメージですが、ギャグマンガ家の日常は案外ストイック。逆にホラー漫画家の日常はギャグだったりしそうですよね。そういうことなんです。

松本人志さんの神になりえる素質があるのは、このギリギリ境界線の上を歩き続けているにも関わらず、今までバランスを崩さなかったこと、発狂していないところなのです。

「北の国から」のあの有名なシーンを見た時、私はこの境界線の恐ろしさに気が付きました。
ラーメン屋さんで、五郎さんと、息子の純くん、蛍ちゃんがラーメンを食べているシーン。

店員のおばちゃんが、ラーメンどんぶりを下げようとする。
五郎さんが「子供がまだ食っているだろう!」と怒鳴る。
このシーン、銀魂(→大好き)にも利用されてましたし、漫才、コントなどにも利用されがちなんですよね。

実は私も、漫才か漫画でこのシーンのパロディーを先に見ていたのです。
昔見ただけなので、記憶があいまいなんですけど・・・興味ある方は、「北の国から」本編をご覧ください。

あのシーン、実は泣けるシーンなんです!
前段階として、純君と、友達のナントカ君が、空き家で遊んでおり、そこに火をつけて火事を起こしてしまいます。
純くんは卑怯なので、「自分はやってない」とごまかします。

地元の人たちは、ナントカ君がやったと決めつけます。ナントカ君の家庭事情は複雑で、親が離婚しており、母親は水商売、そんな環境だからそのナントカ君が悪さしたんだろうという雰囲気になってしまうのです。

そして、ナントカくんは、追われるように町を出ていくことになります。片親、女親だけという差別。水商売という差別。もともと、みんな白い眼で見ていたくせに、ナントカ君が問題を起こしたとたん「ほら、やっぱり!」と堂々
と差別を隠すこともしなくなる。

ナントカ君が町を出るときに、見送りをした帰り、五郎さんたちは、ラーメン店に入るのです。
食の進まない純君。とうとう耐え切れず、「火事を起こしたのは僕です」と告白するのです。
そこへ、ラーメン屋のおばちゃんがどんぶりを下げに来る。

このおばちゃんは、この一家が早く帰ればいいのにと思っている。忙しいし疲れているのでしょう。
ぐずぐずしないで、とっとと食べて帰りやがれと思っているのです。

脚本家の倉本聰さん、天才ですね!
私、このシーンを見たとき、純君のこみ上げてくる涙とラーメンの味が記憶の中でよみがえり、口の中が塩辛くなってきましたもん!!

悲劇、シリアスな状況に、普段のド日常をぶつけると笑いに転換されるのです。
当事者は双方笑えない状況ですが、第三者的な立場からそれを見ると、時間差で笑いがこみ上げてしまうのです。
お葬式などでつい笑ってしまうと語っておられた漫画家の蛭子能収さん、あの人は、おそらくこの境界線ギリギリをよくわかっていらっしゃる。

このまっちゃん問題を見つめる時、冷静な第三者の立場、日常から、笑いとおかしみ、そしてちょっとした心の痛みを感じる人間という生き物の視点を、私たちはもしかしたら持つべきなのではないでしょうか?

笑いそのものが、人間が持つ特権です。
笑いの世界に挑む勇者たちを讃える姿勢があるべきです。
なぜなら、お笑いの世界は神の領域により近いからです。
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