Sと自虐行為

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コラム
世の中には色んな性格のタイプ、性癖、生来の癖、考え方や感じ方などがあります。理解されないけど、多分、特殊な性質を持つ本人にとっては、そうせざるを得ない、何らかの衝動があるんでしょう。

特殊な性癖のある人間に限らず、「もしかして自分は一般的ではないのではないか」「自分はおかしいのではないか」「普通ではないのではないか」と、疑いを持った人間は、ひどく目立つことを嫌います。

そして、「普通とは何ぞや」という研究を始め、「普通に見えるよう」に努力し、学習し、習得することになります。
一般に溶け込むこと、埋没することは、彼らにとっては死活問題ですから、その擬態はほとんど見分けがつかないと思います。

そもそもで人が頭の中で何を考えているのか、なんて他人には外見からでは見えないですからね。
その人の発言、行動、表情などで、どういうタイプの人間か・・・を判断するしかないのです。

そういう意味では、SMの語源になった二人の作家の覚悟というものは相当なものであっただろう・・・・と想像するんですけどね。
Sの語源となったマルキ・ド・サドと、Mの語源となったマゾッホです。

私、かなり前のことなんですが、池袋のリブロでサドの本を立ち読みしたことがあるんですよ。
いやぁ、もう・・・これ、よく出版できたなと感心しましたね。
澁澤龍彦さんがサド裁判をしたわけですが、表現の自由がテーマになりました。表現の自由は大事だけど・・・裁判所の人も、こういう系の小説を証拠として目を通したのかと思うと、同情してしまいますねぇ。

一部分だけの抜粋でしたが、いや、ショッキングな内容でしたね。

とある城の城主が鬼畜だったのです。
村の子供を誘拐して、犯して殺す。
いつものように村の子供を誘拐して楽しんでいたところ、その子の母親が自分の子を探しに来る。
その城主は、母親の前で子供を犯し、さらに、その子供を暖炉に投げ込み、子供が燃えているのを見ながら母親を犯す。

というストーリーなんですよ。
これを言葉にして書き表すというのも、よっぽどですけど・・・出版しようと思った人もかなりよっぽどですよねぇ。

一説によると、サドはかなりの遅漏で、イキにくい体質だったそうです。
それで余計に刺激を求めて、こういう方向に行ってしまったんではないか、と。

まぁ、考えても見てください。
イケないままの状態、宙ぶらりんの不完全燃焼の状態でい続けること。
気を抜くと、すぐそこにありそうな、エクスタシーの瞬間を逃してしまう。
そして、エクスタシーの瞬間は、ここで逃したら、すべて台無し。
そりゃ、焦りますよね。あの境地に行くために、何でも利用したくなるものなのかもしれません。

オスとしての、根源的な焦りであろうと想像するわけですよ。

何らかの衝動と、性衝動、イキにくい体質、刺激に慣れてしまってエスカレートしていった・・・
悪魔のコンビネーションで出来上がってしまった上に、最悪なことに、このサドという人は、それを文章にして表す才能があったんですよね!
さらに彼は貴族様なんですしね。

彼は限界まで自分の感性を研ぎ澄ませます。
命ギリギリの、理性のない、野性的な原色の世界でやっと、彼は、果てることができたのかもしれません。
イキにくいからこそ、性欲、性的刺激に関して研究し、突き詰めた。
純粋に、自分の欲求に忠実に、そしてそれを堂々と書いた。

自分の感覚を極限まで追い込み、研ぎ澄ませる。
痛み、苦痛、恐怖、プリミティブな感情の発露。
それを「見る」ことで彼は、「生きている」と感じることができ、それが性衝動を後押しする。
誰かの限界ギリギリの「生」を見ることなしに、彼はイケなかったのではないか・・・。

感性を研ぎ澄ませて見えたものは、「生」そのものだったのかもしれません。

少数派として生きることは、ある意味哲学であり、修行です。
多数派から攻撃され、理解されない苦しさを抱えながらも、それでも自分の思う道を貫く。
自分の感性を頼りにするしかない。自分の存在の絶対性、絶対的な自信を持つことなしには、主張などできるはずもない。

そして、それが愚鈍な、鈍い感性しか持たない多数派に対して挑発になるのです。「こっち側に来てみろよ」と。
こっち側からみた世界を、彼は、少数派として、ヘンタイから見たその景色を、多数派の連中に突き付けたわけですよね。

痛みを感じて、「自分が生きている」ということを確認する、
その構図がリスカや自虐行為をする人に似てますよね。

リスカをする人は「すっきりするから」という理由でリスカをする、らしいです。「生」を感じたい、感覚を研ぎ澄ませたい、そういう動機はサドにも通じるものではないでしょうか?

もともとリスカをする人たちは、本性がサドなのではないでしょうか?ただ、その攻撃が他者ではなく、自分に向かっている。
リスカをする人は、決してMではない。かといってSまで振り切れてない。
まだ自分の感覚を正当化できずにいる・・・。自分の存在の絶対性を信用できていないのです。

捕らわれたサドは、監獄の中で美食に走り、せっかくの美貌が台無しになるほど、ぶくぶくに太ったそうです。
リスカ、そして過食で、ストレスを発散する人たちは、サドの素質がありますよね。似たタイプなんじゃないでしょうか?

自分は普通でないと分かった時、人は隠れる。擬態する。自分の本性を否定する。だけど、そこを振り切った少数派は、堂々と自分を主張する。
少数派にとって、この戦いは「個」と「集団」であり、決して少数派VS多数派の戦いではない。
常に孤独な「個」としての戦いを強いられる。

そういうわけで、少数派代表としてのサドの言葉は現代人にも刺さるんだと思います。すがすがしい悪に惹かれる人も多いでしょう。

リスカするな、過食するな、自分を痛めつけるのはやめろという気はないです。だけど、そうするよりほかにも方法がありますよ、と言っています。

サドのように自分の欲求に忠実になればいい。
犯罪はダメですけど、人は頭の中で考えるだけなら裁かれません。
主張するだけなら、違法ではありません。

集団の中で静かに死ぬなら、「あっち側」に行って生きる方がマシじゃないか?

孤独を選んで自己主張する、「個」として「その他大勢」と戦う気持ちを持った時、人は「あちら側」と「こちら側」の境界線を見るんですよ。戦う気持ちを持った時にしか見えない境界線を見るんです。

その景色、見てみたいと思いませんか?

自虐行為をする人は「素質」があるので、極めてみたら、とても面白い世界が見えると思います!!
私は、そういう極めた人の言葉や作品がとても好きです!

サドのかっこいい名言を書くの忘れてた。

「私をあるがままに受け入れよ、さもなければ殺せ」

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