成長することの大切さ

記事
学び
人は必ず間違いをおかす。間違わない人などいない。それでもある種のエキスパートが間違っていないように見えるのは、それだけ何度も訓練を繰り返したからだ。何千回も間違いながら試行錯誤してきたから、あたかも最初からミスなどしたことがないようにみえる。

失敗することの大切さとは、訓練することの大切さそのものだ。訓練とは、失敗の誘発と言っても過言ではない。致命的な失敗を避けるために、小さな失敗を繰り返して肉体に正しい適切な方法を染み込ませるのが、訓練であり、練習であり、トレーニングである。

ほとんどの学習において以下の手順を守れば、上達は早い。

1、手本・理想を確認する。
2、実際にやってみる。
3、理想と現実のギャップを確認する。
4、修正する。

もしうまくいかないことがあって、失敗続きになっているときには、このうちどこかのステップが抜けている。

1、そもそも理想を知らない、あるいは目指すべきゴールが見当たらない。
2、モチベーションが低下していて動けない、あるいはそこまでやりたいことではない。
3、1か2が欠けていて確認ができない、あるいは観察・確認不足でギャップがわからない。
4、1,2,3のいずれかひとつ、あるいは複数が欠けているために修正できない。

対策としては、以下である。

1、感動する経験を積み重ねる。「自分もこうなりたい」と思えるものを、これから学習しようと思っている範疇から探す。
2、動機付けやモチベーションについて知る。動けなくなる前に動く。(動いてしまえばこっちのものである。恒常性を味方につけると言ってもよい。)
3、適切なコーチ、指導者にズレを確認してもらう。自分の動作、判断を映像や録音、文章などで記録し、見直す。
4、実際に修正を試みる。うまくいかないときは上記すべてについて抜けがないか確認する。



運がよい人というのは、上達も早いことが多い。

ではでは。


追記(2020.06.21)
僕は直接かかわった人に対して何か指摘をすることは珍しい。大抵の場合、指摘すること自体を禁止されるからである。
ブログでそれに近しいことが書けるのは、読み手が読むかどうかを選ぶ自由があるからであり、直接言えないことが多いのは、聞き手の自由を奪いかねないからである。以下、そのことを念頭に読んでいただくのがよい。


間違ったことをそのままにしておくと、必ずしっぺ返しがある。それもまた、経験として必要なことではあるが、非常に手厳しい体験になる。間違ってしまったことをそのままにしていても平気なおおらかさと同時に、やはり間違いは間違いとして峻別する姿勢とは一緒に持ち合わせているのがよい。

特にミディアム(目に見えない存在からの情報を得て、それを他の人に共有する人の総称)として、誰かに伝達するというときには注意が必要になってくる。
言葉というのは、どうしても始まりがあって終わりがあるので、すべてを書ききることはできない。できないから、人はその文章の中ににじみ出たものから、その紙面の外側を類推しようとするし、紙背を徹するような読み方というのが派生してくる。

どんなに受け取ったものを「そのまま」他者に渡そうとしても、言葉が言葉である以上、そこには土台超えられない壁がある。表現が別の表現として、例えばマンガや小説の類が映像作品へと作り変えられるとき、捨象されたり補われるものがあるように、エネルギー的に降りてきたものを文字媒体や絵などで表現しようとするときには、やはりそこに「人」が媒介するわけで、決してすべてを描ききることはできないという限界である。この限界については原理的な限界であるから、どれほど認めたくないと思っていたとしても、認めざるをえない。

限界があることを認めないという立場は完全に間違いである。そこには表現によって、エネルギー的なものがすべて表現できるという傲慢がある。どんなに表現し尽くしたとしても、伝わらないものは必ず出てくる。そして、「上」から受け取り手であるmediumを通して、別の誰かに伝えている以上、そこには必ず媒介としての我々mediumが存在している。これはただの「筒」のような器として存在しているという意味ではなく、人格として、受け取り手兼解説者として存在しているという意味である。

このとき生の体感をmediumは得るが、その言葉を渡された者はそうではないということに非常な注意を払う必要がある。そもそも「上」と我々とは上下関係ではないこととか、なぜ我々を「上」が見守り続けると決め、投げ出さないのかとか、その言葉を伝えるに至る真意などはすべて捨象されてしまうので、言葉を間違えると伝わり方が捻じ曲がる。
(であるから、何を伝え、何を伝えないかということに関しても注意を要する。仮に「上」に相談してGOサインが出たとしても、mediumの側で「いや、これは違うのではないか」と、人間の側から「ダメだし」をしてもよいのである。そして、時にはそれを「上」が期待していることさえある。)

これは実際に誰かを会話をした様子を映像データに残したものと、文字起こししたものとを比べてみるとわかりやすい。元のデータにはあったエスプリや気の利いた声の調子、身振り手振りなどは、文字にした段階ですべて無くなってしまう。

「上」の存在にしても、mediumに伝わるように話す(依頼者に伝わるかは二の次である)から、又聞きさせる相手がいる場合にはそっくりそのまま伝えるのではまずい場合がある。そもそも西洋系の神や天使にせよ、インド系の神や天使にせよ、日本系の神仏にせよ、無関係に意思疎通ができるようなところがあるが、これは言葉によっているのではない。言葉で表現しなくてはならなくなるのは、我々の便宜であり、都合であり、それ以外の方法を知らないからである。

いわばmediumは実際に山の中に入り山菜やきのこが生育しているのを見、猪や鹿の生きた姿を見、海に潜ってウニや魚たちの生き方を直接確かめているが、mediumから話を聞く者というのは、実際に山や海に入ったことのない人がほとんどだから、mediumの言っていることがよく分からなかったりする。むしろ分かっているように見えるときほど気をつけたほうがよいとさえ言えるかもしれない。サハラ砂漠に立ったことのない者がその暑さを知らないようなもので、そういう存在と直接触れ合ったことのない人には想像もつかない部分というのが確かに存在している。



それで、漫画家の赤松先生が「久米田のヤロー」とブログに書いたのを見て、久米田先生に文句を言いに行くファンが出たりする。(赤松先生は、それで真意を細かく説明しなくてはならなくなった。)


そこにどんな気持ちが本当は隠されているのかを、推し量る方法というのもまた技術のひとつだ。失敗を積み重ねて試行錯誤すれば身につく類の技術である。他者の気持ちが「分かる」か「分からない」かはともかく、分かろうとし続ければ(こう書くと何か非常な努力を要するように見えるかもしれないが、そうではなく、単に分からないことを見つめ続けているだけ、折に触れて思い出すだけでも「分かろうとし続けている」ことになる)、「わからな」かったことが「わかる」ようになるという体感を得ることも多くなる。

分かりたいと思わない人に「分かれ」というのは暴力的である。だが、自分自身が分かりたいと感じていて、分からないことがはっきりと分かっているのなら、分かるようになる体感は、そう遠いものではない。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す