死について思うこと

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「死」という言葉を使うだけでもドキッとする。
それは日々の生活の中で死について考える時間が圧倒的に少ないからだ。

生が死によって終わる事実は変わらない。

医療従事者、警察や消防、仕事がら死に立ち会わなければならない人々、自身が病にかかっていたり生命を脅かす障害に直面している人々は死を意識せざるを得ないだろう。殆どの人々はその状況にない。

著名人の死や、災害などによる多くの人の死、事件や事故のニュースなど、他人の死にショックを受けることはあったとしても、そこで自分の死には直結しない。

死が切実な問題になるのは、自分の大切な人に降りかかってきた時である。例えば子供や親を失うこと、それは耐え難い出来事だ。

人はいづれ死んでしまう。自分もいつか死を迎えるし、大切な人の死に触れ生きていくことになるだろう。

例えば死にたいと思うほど自分が苦しい状況にある時、その状況は自分の全てではない。世界は広いのだ。(と、都合よくポジティブに考えてみたり…)

そう思うと死を考えるということは、自ずと生きることを考えることになる。

公的な死(自分の直接的な日常から距離のある死)も、私的な死(自分の日常を突き崩してしまうような悲劇としての身近な死)も、深く考える時間は大切な時間である。

死んでからは考えられないから今こそ考えたい。


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