何も起きないことが一番神様に守られている

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最近、神様から「貰う」ことに執心しすぎている人が増えてきたように思います。
そういった方々ほど、「特別な奇跡」を求めているようにも。

例えば、大事故に巻き込まれて傷一つなかったとか、大病を患って余命宣告をうけてもそれ以上に生きながらえたり緩解したりなど・・・

勿論、そこにも御神徳が働いているのかもしれませんが、私たちが心を向けていないだけで、もっと日常に神様の御神徳はあふれているように思うし、私たちは私たちの思っている以上に守られているという事実にもっと心を向けなければいけないのかもしれません。

例えば、事故遭って怪我をしなかった事も奇跡ですが、そもそも事故に遭ったことそのものは災いなんですよね。
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災いから守られて、奇跡やご神徳を感じることがあっても、災いがないのは当たり前だから、その当たり前に奇跡を感じる人は少ないと思います。


でも、当たり前と思っているのは人間だけで、もしかしたら今日交通事故で命を落とす運命だったのを、神様のお力で回避できて、事故そのものが起きなかった。



起きなかった事故だから本人は知る由もない、知る由もないので「何もない当たり前の一日」と感じる訳です。



そして、その当たり前の一日には奇跡も感じず、神様のお力も感じないので感謝も抱かない。
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でも、考え様によっては「何もない」のが「一番守られている」状態だと私は思うのです。

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神様からアレもコレも貰おうとする事、特別な奇跡を期待することが悪い事とは思いませんが、日常の中で知らず知らず私たちが賜っている「日常的な奇跡」に感謝するのも、とても大切な事ではないかなと思うのです。


特別な時に特別なお参りをしたり、特別な祈りを捧げることも大切ですが、私たちが気付かなくても感謝をしなくても絶えず賜っている御神徳に感謝して、神棚に日々のお供えをして朝に夕に、加えて思う事のある時に手を合わせて祈りを捧げる。

そういった日常的な軌跡に対する、日常の祈りや感謝があって初めて、特別な祈りが特別な意味合いを持つのではないのかなと思っています。

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私にとって、日常的な普段の祈りこそ、祈りの根幹になる大切な存在で、決して絶やしてはいけない「不断の祈り」と感じています。

神様から我々に恵みが有るのならば、神様の方を向いて日々両腕を大きく広げてこそ多くを得られると思います。

縁起がいい日や、パワーがあるといわれる場所にいって、「求める」ことが悪いとは思いませんが、日常的な奇跡に感謝し、不断の祈りを捧げる事を大事にすべきではないのかなと、思うのです。

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