神無月でも神様はいなくなりません

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少し前に投稿したブログから、何人かからご意見やらご質問やらをいただいたので再稿します。

神無月は神様が全員出雲に行っちゃって留守だからとか、留守番の神様になっているとかいう理由で、「参拝しても無駄」的な事をおっしゃる方もいます(スピリチュアリストにも意外に多いです)が、一年で1番大事な祭祀を神様が不在だったり代理で留守番している神様がするわけないでしょうって言いたい。
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旧暦神無月(11月)も同様。


ついでにいえば鳥居や参道の真ん中、拝殿の中心である正中は神様の通り道とは言い切れません。

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そもそも正中は「中心」の事で、神様の坐す正面だから憚るのです。


同じように、神様はあっちに居るからこっちには居ないなどという事はなく、ここにもあそこにも同時に存在できるのだと思います。


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神様は人間ではありませんので歩いて移動しませんし、同じ瞬間に違う場所に複数同時に存在でき、同じ神様でも拝み方や信仰の在り方で世界に顕す「カタチ」が違う、人知を遥かに超えた存在です。

その神々様を、人知の範疇に落とし込んで理解しやすくするために、擬人化して親しんでいるのだと思います。


つまり日本の歴史は擬人化の歴史、擬人化は日本人の民族性であり、日本人は長い歴史の中で擬人化を積み重ねてきた擬人化の達人だったのですね。


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