「なぜ数学を勉強するのですか」

記事
コラム
私がかつて新卒で数学の教員を目指して就職活動をしていた2005年ごろの話になります。複数の学校の面接で問われた質問があります。「『なぜ数学を勉強するのですか』と生徒に問われたら、あなたはどう答えますか」という問いです。しかし、それから16年以上が経過する現在の私がこの問い(「なぜ勉強するのですか」ではなく「それにどう答えますか」のほうです)をどう思うかについて書きますね。

第一に、16年勤めて来て「なぜ数学を勉強するのですか」という問いを受けたことは一度もないという事実です。これはもしかしたら学校の水準によるのかもしれません。この問いを本当にときどき受ける学校もあるのかもしれません。しかし、少なくとも私の勤務していた学校ではついに出なかった問いです。「この問いは学校の先生の『架空の問い』ではないか」と思ったものです。たとえば、私はある福祉の人に向かって「それは偽善ではないか」と問うたことがあります。その人は「偽善でもいいじゃないか、それで人が助かるんだから!」と答えて来ました。しかし、これも多くの人はなかなか福祉の人の前で言わない問いだと思います。思っている人は多いにしても、実際に私みたいに問う人はまれであるはずです。だからその人は「待ってました!」という感じで答えたのだと思います。「なぜ数学を勉強するのですか」という問いは、多くの生徒さんが思っている問いながら、なかなか言わない問いではないでしょうか。そして、多くの生徒さん、また先生も、暗黙のうちにこの問いに絶対の答えを持っているのです。「入試で出るから」という。

第二に、「この問いは結論ありきの問いだ」ということがあります。この問いを採用試験で出す学校が求めているものは、どういう過程を経るのであれ、「だから数学は勉強すべきなのです」と結ぶことなのです。生徒さんとよく考えてみて「そういえばよく考えてみると、数学を勉強する意味はないね」という結論へ達することは想定されていないのです。しかし、これははなはだ学問的でないものです。学問とは「結論ありき」ではないからです。『チ。』という漫画をご存知でしょうか。天動説と地動説にかんする漫画で、天動説に反対する者は容赦なく殺されていく物語ですが、たとえば、生涯をかけて天動説が正しいことを証明すべく膨大なデータを取った高齢の学者が、「やはり地球が太陽の周りを回っているのかもしれない」という含みを残して世を去る場面があったと思います。(借りて1回だけ読んだだけの漫画なので、記憶に頼ることをおゆるしください。)この「自分で自分に裏切られる経験」は私も何回もしており、それこそが学問です。ですから「だから数学を勉強すべきなのです」という結論ありきで「なぜ数学を勉強するのですか」という問いに答える姿勢は、はなはだ学問的でなく、もちろん数学的でないです。

第三に、この問いは、かなり本気で問うている問いであり、生半可な気持ちで答えてはならない問いだ、という点です。私はあるとき、クリスチャンではないけれども勉強のために口語訳聖書を全部読んだという社会の教員から、「党派心はいけないと言うパウロは、なぜペテロと党派心を起こすのですか」と問われ、とっさに「それはパウロも人間ですから、言っていることとやっていることが食い違うことはあります。それは人間の常です」と答えてしまい、あとから不誠実な答えかただったと反省したことがあります。その教員は、本気で質問していた!単に聖書の揚げ足を取っているのではなかった!「質問の本気度」は考慮に入れられるべきだと思います。

あるマーケティングが専門のかたから「ドリルと穴のたとえ」というものを聞きました。「ドリルありませんか。ドリルをください」と言っている人が本当に欲しいものはドリルではなく穴だ、という考えかたです。その質問をしている人の真意をくみ取らなければならないだろうと思います。

以上の三点です。そもそもこの問いをしてくる生徒さんはいなかったのです。そして、学問とは結論ありきではない。それから、もしもこの問いをしてくる生徒さんがいたら、真剣に答えなくてはならないという点です。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す