「まずは自分から」?

記事
コラム
新約聖書ルカによる福音書のなかでイエスが「医者よ、自分を治せ」ということわざを引く場面があります(4章23節)。否定的場面で引用されていますが、「まずは自分から」というわけです。しかし、「まずは自分から」というのは、じつはなかなかできないのではないかと思わされます。

私はココナラで校正のサービスをしています。最近、最低料金が「1,000円」から「44,000円」(44倍!)になって、「いいね」をしてくださっていたかたが減る現象が起きていますが、じつはこれはお買い得になったのです。私に校正を依頼してくる人の多くが「本の校正」だったのです。そして、私の相場は1文字1円でした。本の文字数は最低でも10万文字くらいで、したがって私の相場は10万円くらいだったのです。それは高すぎると言われて、サービスを「本の校正」にしぼり、1冊4万からにしたのです。お買い得になりましたでしょう?それはともかく、私は、自分では誤字脱字をやってしまうのです。5年前に日本聖書協会に行ったときもその話をいたしました。聖書協会の人は「そうなんだよね~、ぼくもこのあいだやっちゃった」と言って、当時、最新の『聖書協会共同訳』のパンフレットをくださいました。その人が執筆なさったみたいですが「コヘレトの言葉」が「コレヘトの言葉」になっていました。

私には教員の経験がありますが、先生というのはホームルームで「忘れ物をするな!」と言っていばっています。しかし、先生がたは職員室で「あれはどうするんだっけ?」と互いに聞きあっています。あるいは、私には司書の経験もあります。司書というのは図書館の本を日本十進分類法できちんと並べますが、プライベートではぐちゃぐちゃであることが多いものです。自分で自分をくすぐってもくすぐったくありません。ひとからくすぐられるとくすぐったいです。あるいは、ひとをくすぐらせることはできます。でも、自分で自分をくすぐらせることはできないのです。

こういう現象をよく「紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)」と言います。「医者の不養生」とも言います。私はこれに付け加えてよく「教師の不勉強」と「牧師の不信心」と言っていました。教員というのはどうも「人に勉強させるのが仕事だと思っていて、自分では勉強しないのではないか」というふうに見えていたからです。牧師も同様であり「人に信仰させるのが仕事だと思っていて、自分では信仰していないのではないか」と思う牧師にときどき出会います。ですからこれらは揶揄するつもりで言っていたのですが、だんだん私の考えは変わりました。これは人間の偽らざる姿ではないかと思うようになったのです。自分で自分は助けられないのです。

これに似たもので「自分たちで自分たちは助けられない」という現象もあります。「ご夫婦でよくご相談になって」とよく言われるのですが、夫婦で相談することは極めて難しいことです。自分の担任の先生が実の親だったら嫌じゃないですか。お互いに嫌ですよね。キリスト教の信者になることを「洗礼を受ける」と言いますが、あるとき、自分の子どもさんに洗礼を授けている牧師さんを見たことがあります。双方とも非常にやりづらそうでした。だれか代わってあげたらいいのに、と思って見ていましたけど…。

「自分で自分は助けられない」典型として、イエス・キリストがいます。彼はたくさんの人の障害や病気を癒やしました。しかし、自分では十字架から降りられないのです。あるとき見た(おそらく外国の)1コママンガがあります。「あなたが本気を出せば」と書いてあり、筋骨隆々のキリストが十字架を両腕で破壊し、十字架から降りて来るマンガです。いや、それは違うと思います。イエスは本当に十字架から降りられなかったのだと思います。自分で自分は救えないからです。

このように「まずは自分から」というのは、当たり前のようでいて本当はとても難しいものだと私は感じています。冒頭の「医者よ、自分を治せ」という二千年前のことわざも、故郷のナザレで奇跡を起こせないイエスに対して言われた言葉でした。おもにカファルナウムという町で活動していたイエスも、故郷のナザレでは歓迎されなかった。そして、最後は十字架で死んでいくわけです。

この逆もあります。自分で自分は助けられないのですが、他人なら助けられると言うことが言えるのです。2018年ごろ、私は「第2回ダウン」となり、ひたすら絶望して布団で寝ていました。しかし、なぜか自分よりはるかに大した悩みではないと思われる人を励ますことはできたのです。布団で絶望しながら、クリスチャンの仲間にメールで聖書の言葉を送って、励ましていました。そして、その人が「励まされました!」という返信をくれるのを「私の励み」としていました。人を励ますことができると励まされるのです。じつは世の中の暗いニュースを見るのも、同様なのかもしれません。最近、見ていないのでよくわかりませんが、一時期の『笑点』(いい答えを言うと座布団がもらえる演芸番組の)で、木久扇さんがたまに天下国家を論じると、当時、司会だった歌丸さんから「木久ちゃん、まず自分の将来を考えなよ」と言われていたものです。しかし、天下国家を論じる人の気持ちは案外そういうものかもしれません。自分の心配を棚にあげるために天下国家を論じているのではないか。そのあいだだけでも自分の目の前の「心配事」を忘れることができますから。

皆さん、自分のことは棚に上げて、人の心配をしましょう!自分で自分は助けられないけれど、他人は助けられるのですよ。「自分のことは自分でしましょう」「ひとに迷惑をかけてはいけません」。これらの言葉に追い詰められないようにしましょう。「まずは自分から」とはよく聞きますが、じつはそれはとてもできない言葉であるように思います。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す