子どもがおもちゃで遊んでいる。
他の子どもがやって来て、「貸してぇ〜」と言う。
貸すのを嫌そうにしている子どもに、その子の母親が言う。
「どうぞ、でしょ?」
このありきたりなシーン、みなさんはどう感じるだろうか。
…この一連の流れを遠目に見ていた私は、なんだかモヤモヤした。
大人にとっての価値は、たいがい「価格」と「希少性」で決まる。大枚はたいて購入した物は大切にするだろうし、ダイヤモンドだってその辺にわんさか転がっていれば「一生もの」のプレゼントにはなり得なかっただろう。
しかし、子どもたちはその感覚に必ずしも共感できないと思う。自分が大事なもの・良いと思うものは好きで「一緒にいたい」し、たとえ100万円の品でも興味がなければいらない。
そして、その子供の「大切なもの」に対する感覚は、歳を重ねるにしたがって消え失せてゆく。
子どもが、薄汚れた量産型のゴム人形をなぜずっと持ち歩いているのか理解できなくなる。そして、隙きあらば捨てようとさえする。
***
…大人にとってはゴミでしかないゴムのおもちゃも、子どもにとっては(名前をつけてかわいがっている)大切な何かだったりする。友達かもしれないし、ペットかもしれない、守るべき大切なもの…だったりする。
私たちは、なんでもないゴムのおもちゃに、もう強い思い入れなどできない。
その「想い」に、もう共感できない。
だから簡単に、それを欲しがる他人(他のこども)に「どうぞ、しな?」と言ってしまう。
”人を思いやる心が大事”などと言って。
相手を思いやる心を言うのなら…その人は果たして、「どうぞ」させられる子どもの気持ちを思いやっているといえるだろうか。
大事なペット、大事な友だち…いや、”我が子”として抱いているおもちゃかもしれない。大人が思うよりずっと「大切」に想っていることもあるのだ。
というのも、ある程度の年齢になっても、子どもにとっては「命あるもの」と「命をもたない物」の境界線が曖昧であるように思うからだ。
…子どもだってそのくらいわかるだろうって?
ええ。たぶん、子どもたちも、頭では「知って」いる。目の前のものが生物かどうかを問えば、おそらく正しく回答できる。
…でも、クマのクッキーやうさぎのチョコレートを食べるとき「かわいそう〜!やめて〜!」と泣いたことは(子どもを泣かせてしまった経験は)ないだろうか?
くまのぬいぐるみが”寒そう”だからと、お布団に入れてあげていた経験はないだろうか?
何が言いたいかって、子どもにとってそのおもちゃは、私たちが「命あるもの」として大切にしている我が子やペットと同様に大切である可能性があるということだ。
鳩サブレもひよこ饅頭も頭からばりばり食べるようになった私たちが、もうあの感覚を思い出すことは無い。…子どもと接するときは、それを自覚しておかなければいけないと、私は思う。
だから、「どうぞ、しな?」は残酷なんだ。
場合によっては、我が子やペットを「どうぞ、しな?」と言っているのと同等だからだ。
もし、冒頭のシーンにもう一度出くわしたら、私が言ってあげよう。
「これは、だいじだいじ、だからダメ」と。
***
それでもやっぱり、ゴムのおもちゃと命ある者たちを一緒にするなって?
…我々だって、JPEGのイケメンにうつつを抜かしたり、ゲームのデータが消えて世界の終わりの絶望を感じたりするだろ?
こどもにおもちゃを「どうぞ、しな?」というなら、私にそのイケメンのデータを「どうぞ」してもらうぞ!?
子供の頃の「なんとなく辛い」経験、話してみませんか?
その記憶、しっかり”想って”昇華させましょう。