「雑談」で人生が変わった話

記事
コラム
私は、26歳の時に約1年間米国の大学に留学した。

その州は信じられないほど治安が良く、街の人々は皆親切でフレンドリーだった。バス停でも、ごく普通に隣の人がにこやかに話しかけてくる。

英会話の練習には、もってこいの環境であった…。

しかし!!

最初、私はその環境を十分に活かすことができなかった。

話す内容がなかったのだ!!!

私が日本人だと知った同僚や街の住人が、せっかく漫画やアニメの話を振ってくれているというにに…、私はドラゴンボールもスラムダンクも、ナルトも知らなかった(タイトルくらいは聞いたことがあるという程度)。

もちろん、J-popも芸能人も映画もろくに…いや、全く知らなかった。

(というか、日本の漫画・アニメの知名度すごい…)

英語が下手とか、それ以前の問題だということに気づいた。英語以前に、自分は、日本語でもまともに雑談ができないのだということに気づいた。

思えば、自分はこれまで真面目一辺倒であった。

大学院まで行って、留学して…真面目というか、ガリ勉というか。

しかし、真面目であることは、必ずしも「面白みのない人間であること」ではないはずだ(思い返せば、これまで出会った「本当に頭のいい人」は皆もれなく面白かった。ユーモアとセンスがあった)。

私は、心機一転、一生懸命(現地で)インターネットを契約して、日本のアニメを見た。

外国の地で、日本を勉強した。

自分は、日本の観光名所も歴史も有名人も、全然知らないんだと言うことを思い知ってショックを受けた。

それからは、Facebookを始めて、少しずつ、英語で日本を紹介するページを書いたり、知らないことはその場で調べて(スマホ様様)、話題にかじりついた。地域のイベントにもよく参加した。

結果的に、現地の友達と旅行にいくほどの仲になるなど、帰国までけっこう楽しく過ごしたと思う。

***

人と会話をするということは、違いを認識すること…すなわち、自分がどんな人間であるかを認識していくことでもあるように感じる。

自分は何が好きで、何が嫌いで、それにはどんな理由や背景(バックグラウンド)があるからで、何かを見たり聞いたり知ったりしたときにどういう思考をするのか…思考の癖があるのか。

多くの場合、人は無意識の判断で、好き・嫌い・快・不快を表している。そして、ときにはうっかり失言して大切な人を傷つける。

私たちは、子供時代、「無駄話はいけないこと」「くだらないこと」と怒られて、机で黙って勉強するのが「いい子」だとしつけられる。でも、それは「自分が何者かわからない」多くの大人を製造しているように思う。



人や作品と”つながる”ことは素晴らしいものです。

でも、もし誰かを傷つけるのが怖くて会話が億劫なら、まずは練習からどうぞ。





サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す