『「人と違う」ということ』

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日本人は「人と同じ」が好きだ。

よく、以前に浄水器の訪問販売が自宅に来たが、そのときの業者の決まり文句が「この辺のお宅はご近所みなこの浄水器を使ってらっしゃいます」だった。

「みんな○○していますよ」と言われるとそうしたくなるという心理である。
「人と同じ」は安心するらしい。

私に言わせれば「人と同じ」には全く価値がない。
むしろ「人と違う」ことがその人の優位性であり、価値なのだと思う。

なぜみんなそんなに人と同じことを求めるのか、多少理解できないところはある。

「人と同じ」だらけのそんな平凡な人間が果たしてこの世界を変えていけるだろうか。
スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツらが「人と同じ」ことを求める人間だったら、アインシュタインが、エジソンがそんな人間だったら、果たしてあんな成功を収めることができただろうか。

「人と同じ」はその人が平々凡々とした平均的な人物であり、なんのアドバンテージもない所謂「凡人」であることを示している。

私たちが目指すのは「人と違う」人間である。

以前にも私は投稿で述べたが、「普通」などどいうものはこの世に存在しない。
あるのは「平均的」というものであり、悲しいかな、大多数の人々がそれを良しとしている。

突出した人物はこの日本ではある種の違和感を持って見られる。
同調圧力の強い日本人は「雉も鳴かずば撃たれまい」とばかりにそういった人間に理解を示さない。

「出る杭は打たれる」ということはこの日本では暗黙の了解であり、みな打たれることを恐れ、平均的な人間に自らを落とし込んでいく。

「和をもって尊しとなす」は日本人の素晴らしい調和の精神を表した言葉であるが、同時に日本人の島国根性を形成する土壌の根幹を成す言葉でもある。

島国根性というものは日常の様々な場面で見ることができ、仲間の輪の中に入れた者は好意の目で見られるが、入れなかった者には厳しい視線が注がれるといった日本独特の風土にもそれは表れている。

現在の、このコロナ禍での日本はまさにその日本人の悪い排他性が極めて顕著になっている状況である。

元々あったアイランド・フォームというものが、このコロナ禍でさらに増強され、日本社会はますます息苦しく、住みにくい場所になってきている。

今こそ「人と違う」ことの素晴らしさを再認識し、また、そういう異端児を受け入れられる社会を形成していくことが、今日の私たちに課せられた急務であると私は思う。

「人と違ったっていいじゃない」ではなく、「人と違うことを目指すべき」なのだ。


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