アメリカで有名なのはペリーの兄!?黒船来航の誤認

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皆さんも教科書で一度はペリーと黒船について学ばれたのではないでしょうか。
黒船の来航によって日本は開国をすることになり長く続いてきた鎖国の歴史に幕を閉じました。
それは日本側から見た場合の事情ですが、世界史まで広げてみたときには別の視点で見ることができるようです。
この記事ではアメリカの側面から見た黒船来航と日本の側面から見た黒船来航について解説していきます。
1.黒船の来航目的とは
1850年前半までの日本は鎖国中でしたが、長崎にて中国とオランダとは交易を結んでいる状態でした。
しかし、黒船来航で現れたペリーの国籍はアメリカ人です。
いったいなぜアメリカ国籍のペリーが開国を求めて現れたのでしょうか。
1‐1捕鯨船の拠点としての活用
当時はアメリカ国籍の人間が日本の近海で捕鯨を行っていることもしばしばあり、時化の際に難破することも多くありました。
当時の捕鯨には良質な油の確保という重要な任務があります。
まだ石油の発掘が本格的に行われる前の時代だったため、鯨油が最も良質な油とみなされていました。
その捕鯨船の保護は産業発展に必要不可欠だったわけです。

1-2新しい商品購入市場の開拓
欧米の列強は船舶の技術革新により1840年代に東洋への遠征が技術的に可能になりました。産業革命の初期段階にあったイギリスをはじめとした各国は大量生産した商品を販売する先としてアジアの市場を狙っていました。
一方、当時のアメリカは独自の路線を進んでいます。
1846年にオレゴンを、48年にはカリフォルニアを獲得し、太平洋の大陸国家としての地位を確立するために動いていました。
原住民は住んでいるものの、白人達にとっては未開拓な領土が残っている状態。占領という形で領土を広げていったわけです。
しかし、太平洋沿岸地域を確保した後は領土を拡大する場所がなくなってしまいます。
そこで目が付けられたのがアジア地域です。
ですが、当時アヘン戦争後の清国やインドはすでにイギリスやフランスの植民地競争が進んでおり、割って入れる状況ではありませんでした。
そのため、日本という国を開放することで清国への足掛かりと新たな貿易先としての地位を作ろうと考えたわけです。
2.ペリーという人物の生い立ち
日本に開国を迫ったペリーはどのような生活を送っていたのでしょうか。教科書では知られていない生い立ちについてお伝えします。

2-1ペリー家は海軍一家
マシュー・カルブレイス・ペリーは、海軍一家のペリー家3男として生まれます。父のクリストファー・レイモンド・ペリーも、海軍軍人で、海軍の大尉になった人物です。
兄であるオリバー・ハザード・ペリーも、米英戦争のエリー湖の戦いでは敵艦を鎮めることなく全席拿捕を行うという驚異的勝利を収めたことで有名人です。
そんな父や兄を持つペリーは自身も大きな功績を残したいと考えていたことは容易に想像できます。

2-2ペリー自身の軍歴はどのようなものだったか
ペリーは米英戦争で兄の功績を目の当たりにした後、ブルックリン海軍工廠の造船所長に就任します。
当時は帆船と蒸気船が入り混じるちょうど過渡期です。
ペリーはアメリカの2隻目の蒸気船建造により1840年に大佐になります。
その後46年にはアメリカ・メキシコ戦争で本国艦隊副指令に就任。のちに艦隊司令官に昇進することになります。
ペリーは自身の経験から蒸気船をメインとした海軍の強化を行ったため、蒸気船海軍の父といわれています。
2-3黒船来航とペリー
蒸気船の力を良く知っているペリーは1852年、フィルモア大統領の親書を受け渡すよう指令を受けます。しかしその任務が与えられる以前の1851年、日本開国のため独自計画を立てています。そこには大型蒸気軍艦を用いた軍事力を見せることで開国を強硬に行うことが書かれています。ペリーは日本の開国に対して長年試案を練っていたことになり、戦略家としての側面が見て取れます。
3.幕府による黒船への対応
当時の江戸幕府ではタイミングが悪く将軍家慶が病床に臥せっています。今まで見たことのない蒸気船による艦隊を見た日本の役人はどのように対応したのでしょうか。
3-1黒船来航時の幕府の状況
1952年幕府にオランダ商館長から長崎経由でアメリカが兵隊とともに条約締結を求めて艦隊で向かうとの情報が入ります。
家慶の代打として活躍している老中首座の阿部正弘は通商条約を結ぶべきでないとし、三浦半島の防衛を強化します。
実際にはペリーは琉球王国に開国要求をしたのちに小笠原→浦賀と歩みを進めます。
琉球では開国要求が失敗に終わりますが、琉球が友好的対応を行ったため、武力制圧は何とか免れました。
浦賀に到着したペリーは日本からの冷遇を感じます。大統領の親書を受け取りに来たのが浦賀奉行を名乗る役職の低い役人だったからです。
ペリーは浦賀湾周辺の測量を開始し、幕府に脅しをかけると阿部正弘は国書の受領を認めることとし、文書が受け渡されました。
しかしその際日本側の言い分としては将軍が病気のため1年間の猶予を欲しいと要求したのみにとどまり、外交上の交渉は一切行われませんでした。
その後ペリーは蒸気船2隻、帆船2隻による空砲を行い、1度目の来航は終わりを迎えました。
3‐2 2度目の黒船来航
ペリー退去の10日後に将軍家慶はこの世を去ります、跡継ぎの家定は天然痘による脳に障害を抱えていたため、国政が担える状況にはありませんでした。困った老中首座の阿部は各大名から庶民に至るまで外交意見を求めますが、明暗は生まれませんでした。
その際に会議により物事を決める公議興論の意見が残ってしまい討幕運動のきっかけとなってしまいます。
阿部は米国と戦争にになる可能性があると考え、軍艦の建造を推奨。各国が軍艦をこぞって作るようになります。
各般の武力が上がると同時に権力も上がっていくことになります。
そんな中予定より半年早いタイミングでペリーが二度目の来航を行います。将軍の死去に乗じて要求を通そうと考えたのです。実際にペリーの要求当初よりスムーズに進みます。
その時に通した要求は下記です。
・薪水、食料、石炭の供給
・漂流民救助
・米国への片務的最恵国待遇
通商は開始されませんでしたが、日本の開国というペリーの目的は果たされたことになります。
今後ほかの国と新たな条約を結んだ際にはアメリカが最もよくなる待遇と知ることも約束をしたため、どこかの国が近年中に開国に同意をさせられるだろうと考えたペリーは目的を果たしたと考え日本を去ります。
4.黒船来航後の世界はどうなったのか?
鎖国中の日本は世界から見ると一切情報がない不思議な国でした。
開国により世界史に復帰した日本はどのように変化していくのでしょうか。
4-1アメリカの視点から見た場合
アメリカでは日本の開国に軍事力を使ったことに賛否両論の意見が新聞上で議論されています。
西欧の植民地支配を避難しておきながら米国も同じ道を歩んでいると批判を受けた形になります。
しかし実際には大役を果たしたペリーはわずか4年後に死去。1861年に南北戦争が始まってしまったことで日本との関係性は重視されず、アメリカはアジア進出に積極的になれませんでした。
4-2日本視点から見た場合
黒船来航の際に幕府は物事を決めきることができないまま交渉をすることになりました。これまでの幕府の権威を失墜させることになってしまいます。
1856年には日米修好通商条約を結ぶためタウンゼント・ハリスが来日します。その際に対応していた老中の堀田正義は西欧の植民地支配のことを伝えられた堀田は、アメリカと条約を結ぶために動きます。それに激怒した異国嫌いの孝明天皇の意見を受け、幕府は老中より役職が上の大老に井伊直弼を就任させます。
しかし、井伊直弼はハリスから英仏が日本に向かっているとのデマに乗ってしまい1958年不平等条約である日米修好通商条約を結びます。
不平等条約によって国内の不満は少しずつ大きなものになりました。
このことによって外国を排除し、天皇を尊重すべきという尊王攘夷運動が盛んになっていくわけです。
これが幕末の動乱に進んでいくきっかけになるわけですね。
いかがだったでしょうか。
黒船来航の理由と結果、有名人ペリーのことについて知っていただくことはできたでしょうか。戦国動乱に至る序章の黒船来航。楽しんでいただければ幸いです。

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