私:2013年のアメリカ映画『42(邦題:42 〜世界を変えた男〜)』を簡単に紹介してくれる?
ChatGPT:2013年のアメリカ映画『42(邦題:42 〜世界を変えた男〜)』は、ジャッキー・ロビンソンの伝記映画です。ジャッキー・ロビンソンは、メジャーリーグベースボールで最初にアフリカ系アメリカ人選手としてプレイした人物で、人種障壁を破り歴史を変えた重要な人物です。この映画は、ロビンソンがブルックリン・ドジャースに入団し、当時の人種差別に立ち向かいながら彼の野球キャリアを築いていく過程を描いています。
映画では、チャドウィック・ボーズマンがジャッキー・ロビンソンを演じ、その才能と人間性を生き生きと表現しています。また、ハリソン・フォードが、ドジャースの総監督ブランチ・リッキーを演じ、ロビンソンを支援する重要な役割を担っています。映画は、当時のアメリカ社会における人種問題を率直に描きつつ、ロビンソンの強さと勇気を讃えています。
私:ありがとう、助かるよ。次はこの映画作品の舞台である1946〜47年、アメリカ野球の黒人差別の様子について教えてくれる?
ChatGPT:はい、もちろんです。1946年から1947年にかけてのアメリカ野球界では、人種差別が根強く存在していました。この時期、メジャーリーグベースボール(MLB)は、事実上の白人専用リーグでした。これは、人種隔離政策の一環として、アフリカ系アメリカ人選手の参加を禁じていたためです。
**ネグロリーグの存在**: 当時、アフリカ系アメリカ人選手はメジャーリーグでプレイすることが許されておらず、彼らは「ネグロリーグ」と呼ばれる独自のリーグでプレイしていました。これは、優秀なアフリカ系アメリカ人選手たちが、才能を発揮する場を求めて組織したリーグでした。
**ジャッキー・ロビンソンの登場**: 1947年にジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースに加入したことで、この人種隔離の壁は破られました。彼はMLBでプレイした最初のアフリカ系アメリカ人選手となり、大きな歴史的意義を持ちます。彼の加入は、多くの反対や困難に直面しましたが、野球界における人種隔離の終焉の始まりを告げる出来事でした。
**社会的な反響と影響**: ロビンソンのメジャーリーグデビューは、野球界だけでなく、アメリカ社会全体に大きな影響を与えました。彼のプレイは、公民権運動への支援となり、アメリカ社会の人種差別に対する意識を高めるきっかけとなりました。
この時代の野球界の人種差別は、単にスポーツの問題ではなく、より広い社会的・文化的な問題の一部であったことを理解することが重要です。ジャッキー・ロビンソンのような人物は、単に野球の試合に勝つためだけではなく、より公平な社会を築くための戦いにおいても重要な役割を果たしました。
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ロビンソン選手の妻レイチェルがベビーカーを押して、メジャーの舞台でホームランをかっ飛ばす夫の大活躍をラジオで聞きながら、嬉しそうに歩く場面。スローモーション効果の適用。カメラがレイチェルの定点視点で横移動をして、奥行きの前後にいるアフリカ系住民たちが歓喜をしている──あの場面だけが定点移動ゆえにミュージカル劇のような作り物に観えて違和感を覚えたが、意図的な演出かもしれない。この場面以外は物語性、命題、展開、人物描写、舞台描写、演技、台詞、音楽構成、野球風景、その全てにおいて隙のない素晴らしい作品だ。
台詞については、特に俳優ハリソン・フォードが演じるブルックリン・ドジャースのジェネラルマナージャー、ブランチ・リッキーの言葉のひとつひとつの投げ方が非常に強烈だ。例えば、ロビンソン選手の試合参加を電話で拒絶するフィラデルフィア・フィリーズのゼネラルマネージャー、ハーブ・ペンノックに対して、彼は次のように怒鳴りつける。
Branch Rickey: You think God likes baseball, Herb?
Herb Pennock: What - ? What the hell is that supposed to mean?
Branch Rickey: It means someday you're gonna meet God, and when he inquires as to why you didn't take the field against Robinson in Philadelphia, and you answer that it's because he was a Negro, it may not be a sufficient reply!
ブランチ・リッキー:ハーブ、神様は野球が好きだと思うか?
ハーブ・ペンノック:はぁ?それは一体どういう意味だ?
ブランチ・リッキー:いつかお前さんが神様に会った時、フィラデルフィアでロビンソンに対してグラウンドに立たなかった理由を尋ねられた時にどうなるかという事を私は言っている。もしお前さんがその理由を「彼が"ニグロ"だったからだ」と答えたら、それは神様を満足させるものではないだろうな!
彼らはお互いに元野球選手なので野球を愛しているし、またお互いにキリスト教徒であるがゆえに神様から愛されているとも信じている。リッキーの言葉は、「お前の黒人差別は、野球と神様に対する冒涜だ!」という強烈なメッセージを相手に投げかけている。それでいて、豪速球では相手が意固地になる事を理解しているから、多少の変化球で程よく相手の内角を突いたのだ。ペンノックはこの言葉に完全に閉口する。"アウト!"という主審の声が聞こえて来るような場面だ。
この記事を書いているのが折しもちょうど2024年、第96回のアカデミー賞が開催されて例の醜聞が持ち上がったばかりであるから、ロビンソン選手が活躍した時代の異常な人種差別の話題は決して他人事ではない。前年度、アジア系として初めてオスカー像を獲得した、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の女優ミシェル・ヨーと俳優キー・ホイ・クァン。彼らが今年の受賞者にオスカー像を手渡すという演出が行われた場面において、ヨーから像を受けた女優エマ・ストーンも、クァンから像を受けた俳優ロバート・ダウニー・Jr.も、どちらも相手の目すら見ずに奪うように像を手にして素通りをした。パーティーでお盆に乗せたシャンパンを使用人から取るとでも言うような、孔子先生も大激怒をしそうな極めて無礼な態度である。
「特定の人種をまるで空気のように扱い無視する」というこの差別行動を、アメリカでは「Micro Aggression(目に見えないような攻撃)」と表現する。統計的な実証がある訳ではないが、自身の経験則を含めた一般的な感覚としては、この"目に見えない差別攻撃"をする者はいわゆる"白人"に多い印象が強い。この差別攻撃の恐ろしさは、当人にその差別意識と悪意がまったく無いという点にある。特定の人種を文化・歴史・社会等の何らかの理由で憎み、意識的に暴力や暴言を実行する差別行為については、それが最低で愚劣な行為である事には違いないが、まだ多くの善良な人々にとっては理解できる。しかし、Micro Agressionは善良な我々にとって、どうしてそのような事が出来るのかさっぱり理解できない。同じ人間であるにも関わらず、その言動が理解不能という事ほど恐怖を覚えるものもない。
この件について言えば、2016年10月にアメリカで起きた出来事がひどく私の印象に残っている。ミネソタ州ミネアポリスに向かっていたデルタ航空便のアメリカ国内便で急病人が発生し、客室乗務員が乗客に医師がいないか呼びかけを行った。この時、幸いにもテキサス大学ヒューストン校に所属する産婦人科の研修医、黒人女性のTamika Crossさんが近くにいた。彼女が呼びかけに応じて意識不明の男性を助けようとした所、客室乗務員は次のように返事をした。
- oh no sweetie put ur hand down, we are looking for actual physicians or nurses or some type of medical personnel, we don’t have time to talk to you.(いやいや、違います、そこのご親切な方、手を下ろして。今は本物の医師や看護師、あるいは何らかの医療従事者を探しているの。あなたと話す時間はないの。)
先述の通り、どのような人生を送ればこのような無意識の侮蔑を行えるか不明であるが、客室乗務員はまともな医療従事者に黒人は存在しないと完全に信じきっているのだ。クロス看護師は激しい苛立ちを抑えながら男性の救出の為に医療行為に及ぶ事になったが、この段階でも彼女の試練が続いた。客室乗務員は彼女に無礼な質問を放り投げ続けた。
- oh wow you’re an actual physician?(へぇ、あなた、本当に医療従事者だったの?)
- let me see your credentials.(あなたの資格証を見せてよ。)
- What type of Doctor are you? (どういう分野の医師なの?)
- Where do you work? (働いている場所はどこ?)
- Why were you in Detroit?(なぜデトロイトにいたの?)
これらの質問を男性救出中に行っているという点、そして客室乗務員は引き続き彼女を疑ってクロスさんの救護行為を妨げるような態度を取ったという点も補足をしておかねばならない。はっきり言って、この事件は善良な人間にとって狂気でしかない。2017年には同じくアメリカのユナイデット航空において、航空会社側のダブルブッキングによる手違いにも関わらず、強制的にベトナム系アメリカ人の医師デービッド・ダオが警備員に暴力的に引き摺り下ろされるような事件も起きている。「乗客を降ろすならアジア系である事は当たり前」という、こちらも同じ人間とは到底思えないMicro Aggressionである。(映画『42』でもこれと完全に一致する逸話が描かれていた。)
どうしてもこの手の事件はアジア人としての矜持が騒ぎ義憤に駆られるが、そこは論理学の道を歩む人間として冷静な観察を試みたい。この狂気的なMicro Aggressionがどのように発現しているのか論考を行う場合、その手がかりとなるのはやはり自身の三元論に基づく人間識別の要素である。この要素は『5時から7時までの恋人カンケイ』で取り上げた類型によく似ている。彼らの見えない差別行動の引き金となるのは、身体的要素(容姿や声質など)、精神的要素(信仰や文化など)、社会的要素(国家や人種など)である。
弱い身体的要素・弱い精神的要素・弱い社会的要素
弱い身体的要素・強い精神的要素・弱い社会的要素
弱い身体的要素・弱い精神的要素・強い社会的要素
弱い身体的要素・強い精神的要素・強い社会的要素
強い身体的要素・弱い精神的要素・弱い社会的要素
強い身体的要素・強い精神的要素・弱い社会的要素
強い身体的要素・弱い精神的要素・強い社会的要素
強い身体的要素・強い精神的要素・強い社会的要素
Micro Aggressionの場合、無意識、すなわち瞬間的な視覚情報を元にした直感的行動としてその醜い反応が繰り出される事から、上述類型の「強い身体的要素・弱い精神的要素・弱い社会的要素」の事項が起因になっているものと考えられる。彼らは色彩・形状・音質などの人間の外殻に関する視覚情報を読み取り、これを瞬間的に分析した結果として、「注目するべきもの」「注目しなくて良いもの」を区分する反応を示す。彼らが「注目しなくて良いもの」と判断した場合、彼らにとって「その人」は「それ」となり、何ら注目に値しない道路標識や街路樹と同等の扱いとなる。
では、次になぜそのような現象が生じるのかという点の論考を進めたい。人間は特に幼少・青年期の教育体験によって後天的に「注目するべきもの」「注目しなくて良いもの」を区分するフィルターの定義設定の基礎を固める。もちろんその後の成長過程においてもこのフィルターの定義設定には若干の変動が加わるが、根本的な基礎部分はほとんど変わる事は無いと考えるべきだろう。すなわち、例えば先ほどの客室乗務員の場合は幼少時において成長過程において「アジア人」を示す視覚情報について、それを「無視するべきもの(注目しなくて良いもの)」に分類するフィルター定義設定を行う教育環境であったと考えられる。それはもともと現実・文化問わずアジア系の事物に触れる機会が完全に無かったのか、あるいは差別主義者に囲まれて育ったのか、どちらが理由であるかは分からない。(そのようなフィルター定義設定を持って生まれたという可能性も考えられるが、私の見解では「先天的な注目フィルター」は存在しないと考えている。この「注目フィルター」は全て後天的に設定されるというのが道理である。)
この無意識の差別意識、注目フィルターによる自動分類(瞬間的な無視行為)は、私が論じている人間の三つの本能「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたいという欲求)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたいという欲求)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたいという欲求)」と直結する機能である。例えば、私はスーパーで菓子類のコーナーを素通りする。それは「生存欲求」の視点から、それらの食糧が自分にとって「生きたいという注目に値しない」という設定があるからである。また例えば、私は以前はホームセンターで自動車関連のコーナーを素通りする。それは「知的欲求」の視点から、自動車を所有しない私にとって「知りたいという注目に値しない」という設定があったからである。(現在は自動車を保有して自分で一定のメンテナンスをしているので、「注目フィルター」の設定が変わっている。)これと同じ事が「存在欲求」にも言える。ロバート・ダウニー・Jr.のように、特定のアジア系の人物を素通りする場合、それは彼がアジア人に対して「繋がりたいという注目に値しない」という設定を組み込んでいるからである。
この「注目フィルター」は「教育」によってのみ是正が可能である。この注目フィルターに関する教育の根本的な指針については、古代中国の時代における魯国の先生の論理学的な模範解答を紐解けば良い。
"子曰、「君子周而不比、小人比而不周。」"
「先生はこう言いました。『君子(善者)は広く人々と付き合いながら特定の人を優遇・冷遇する事はなく、小人(悪者)は特定の人を優遇・冷遇して付き合う人を限定しようとする。』」
つまり初等教育の段階において、彼らの周囲にいる保護者、大人、そして教育従事者達は(仮に自身に特定の注目フィルターがあるにしてもそれを表に出さないように耐えて)、未来を築く若者達に「全ての人と平等に接しなさい、それがこの世の中の基本である」と教える必要があるという事だ。若者達が触れる文化に携わる人間達にも同じ事が言える。あまり当然の道理であるが、その道理が2500年を経ても果たす事が出来ないという点に、人間の悲しい性がある。それでも、我々は共生の歩みを絶対に止めてはならない。そう願う人間がいる限り、我々の未来には希望がある。
"The thing about him was that he was always doing something for someone else. I know, because he did so much for me.(彼の特徴は、いつも他人の為に何かをしていた事だった。私がそれを知っているのは、彼が私の為にも沢山の事をしてくれたからだ。)" - Jackie Robinson
※画像:DALL-E