仏の教えを教えた人の教えを教える

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法然さんのおっしゃることがよく解らず、
そもそも「これは庶民に理解させる気がなかったのではないか」と段々、ふてくされている。
日本人が日本語で書いているにも関わらずほぼ漢文で、書き下し文が必要なのはどういうことか。当時の識字率からしても、信仰が特権階級にあるように感じる。
特に教育を受ける機会がかなり遅れた女性なんてほぼ対象にしてないのではないか。いや、それでも「南無阿弥陀仏と言っていれば成仏できる」、それより温かく優しい教えは無い。こまけぇことはいいんだよ、が当時としては大事だったのかもしれない。
人は結局、頭でっかちになってもしんどい時こそ念仏のワンフレーズしか思い出せない。

いろいろあって法然さんのお言葉を勉強させて頂き、とてもありがたく、なんか肝心の「仏」が何か解らず、けれど大好きな仏像は大概が法然さんが開祖の浄土宗のものなので、なんだかそれすら見たような気になっていた。
仏教美術における突き抜けた「聖」を携えた美しさは、問答無用で「仏はいるのだな。安心安心」と思ってしまう。

さて、いろいろあって法然さんの言葉から派生させて文章を書いているのだが、どうも仏教によって宗派ごとに信仰の仕方が違うのかもしれない。
「何でも良い」国において、「何でもよくない」。
確かに、新興宗教などによる盲信もあれば、古来からの宗教の信仰者でも盲信しすぎて人生が行方不明になる人もいるようで、「正しい信仰」というのがあるのだろう。人生を乗っ取らず、伴奏・伴走してくれる信仰と浄土への約束、成仏の確約。
更に、自分は縁あって長崎でカトリックの勉強もさせて頂いて、「ああ、隠れキリシタンの方が棄教しなかった理由はこれか」と信仰を「わかったような気でいて」、全然わかってなくて、それは言語化できてないだけだと信じたい。どうしよう、私の中に本当は神も仏もなかったら。

 信仰の光は同じ色だと思っていたけれど、どうも蛍光灯や白熱球、ろうそくの光のように同じ光でも違う。没原稿はこちらで掲載できるようにしたいと思っています。

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