「ありがとうよ。この時期の冷たい麦茶に焼肉弁当。本当に助かる。わしらは路上生活を続けているが、飯にありつけるのは、あんたらのような心の優しい人間と配給所だけだ」
そう言うと、この辺りの区画を縄張りにして路上生活を続けているホームレスである吉田さんはうやうやしく俺に感謝する。
俺は実は財布の中には、数千円しかなく、全財産の五分の一くらいを吉田さんの為に使ってあげた事は口にしなかった。
「いえ。単に気まぐれですよ、たまたま、時間を潰そうとこの辺りに寄ったら、貴方がいたもので…………その……」
吉田さんは片足が義足だった。
彼の身の上話は聞きづらいが、どうしてもまともな職にはありつけないそうだ。一時期は国から生活保護を貰って暮らしていたが、貧困ビジネスという奴にあたって、生活費の殆どを施設に徴収され、毎日、数百円ばかりで生活していたそうだ。それで嫌になって、施設を抜け出して路上生活に戻ったそうだ。
吉田さんは百円ショップで買ってきたものと思わしきプラスチックの皿を置いていた。皿の上には一円玉から百円玉硬貨が数枚入れられている。寄ってきた人間に対しては、リクエストがあれば下手なりに歌などを歌ったりするのだと言う。
俺は半年近く家賃を滞納していたアパートから追い出された為に、リックサックに背負えるもの以外の殆どのものを処分する事になった。これから、俺も路上生活者という名のホームレスだ。先輩である吉田さんからは、それとなく、情報を聞いておかなければならない。
しばらくの間、俺と吉田さんは取り留めのない会話をしていた。
「そういえば、アンタ、××区の××駅近くにある、青色の壁をした廃墟の事を知っとるか?」
「いえ、知りません」
「若いもんなあ。なあ、あんたも俺達の仲間入りした新人だろ。だから、言っておくぞ。青色の廃墟には近寄るなよ。あそこは“アオリさん”の縄張りだ」
「アオリ、さん……?」
「そう、アオリさん、と言われている、名前の由来はよく分からないんだがなあ。とにかく、アオリさんは、××駅近くにある廃墟に住んでいる。関わるんじゃないぞ」
何でも、吉田さんいわく、アオリさんは精神病院を転々とした後、ホームレスになったらしい。ホームレスになる人間は複雑な経緯を抱えている人間が多い、なので、その経緯のみを聞くと珍しいものではないらしいが、アオリさんの場合はやはり、ホームレス仲間の中でも異常らしかった。
俺は親と仲が悪く、当時から、度々、家を出ては行く当てもなく放浪をしていた。路上生活から抜け出した今でも、親とは仲が非常に悪い。そんなものだ……。
当時の俺は、言ってしまうと、吉田さんと同じように路上生活者みたいなもので、路上生活者の新入りといったようなものだった。
しかし、青い壁の廃墟か……。
俺は若かったので、学生のノリでその廃墟に侵入を試みようと思った。もっとも、俺は大学には通わなかったし、高校もあまり通わずに単位ギリギリで卒業させて貰ったのだが……。偏差値の低い高校を出ていた為に、まともに就職する事も出来ずに、アルバイトを点々としていた。親と仲が悪かったが、俺が定職に就けずにいた為に、更に俺は親とは険悪になった。……正直な話、幼児期から、俺に対して虐待まがいの事をしてきた親には恨みばかりが深くあった為に、どんな形でも家を出れてせいせいしている。路上生活が上手くいかなくなったら、国の福祉に頼って生活保護を受給しようと考えていた。
……ネット上で生活保護受給者なんて、ナマポ野郎とか言われて、叩かれているもんなあ……。
俺は親から、物心付く前からゴク潰しだのただ飯食らいだの言われてきたので、自分一人で生活して自立するのが夢だった。家を飛び出して派遣労働を点々として首を切られたりして、光熱費もアパートの家賃も払えずに何年も過ごしていた。……自立を望んだ結果がホームレス……、情けなくて仕方が無かった。
俺はアオリさんが住んでいると言われる“青色の廃墟”へと向かう事にした。
正直、雨風に打たれながら生活するのは苦痛だし、ネットカフェに泊まる金なんて無かった、だから、ヤバい人だって言われても自分の親やかつての職場の嫌な上司に比べれば話が通じるんじゃないかと、安易な気持ちで、青い壁の廃墟へと向かう事にした。……もしかすると、怖いもの見たさや、何処か自己破滅的な部分で危険な人物にあってみたい、という感情もあったのかもしれない。
俺は今月中に電話もネットも止まるであろうスマートフォンを片手に、その場所へと電車で向かった。電車賃の数百円は痛かったが、仕方が無い。
目的地の周辺に辿り着くと、明らかに、それらしき場所を見つけた。
壁一面が青く、執拗に落書きがされている。
周辺は何処も空き家ばかりで売りに出されていた。
俺は何としてでも、アオリさんの住んでいる廃墟に入って、そこを当面の住居にしようと考えていた。
廃墟の外側は小汚く、落書きのようなものがびっしりと書かれている。地元のヤンキーか何かが悪戯をしたのだろうか。廃墟というよりも、一軒家なので、廃屋といった方が適切な気がした。
中へと入ってみる。
まず、目に付いたのは台所だった。
流し台から強烈な異臭が放たれている。
なんと、流し台いっぱいに大量の魚の骨が詰め込まれていた。
俺は家の奥へと進んでいく。
ゴソゴソ、と、大量の虫が徘徊している音が聞こえた。ゴキブリの類だろう。それよりも強烈な異臭が鼻にこびり付いてくる。
俺は嫌なものを目にしてしまった。
それは、大量の動物の死骸だった。
犬や猫の死体だ。白骨化しているものもあれば、半ば腐って、べったりと床にこびり付いているものもある。気味が悪い事に、犬猫の死骸の一部には、明らかに生のまま喰われたような形跡があった。
酷いカビの汚れが壁一面をびっしりと覆っていた。
妙に生活感のある場所だった。カップラーメンの空容器などが転がっている。
がりがり、がりがりがりがり。
何か、物を齧る音が聞こえた。
長い白髪を垂らした、男なのか、女なのか分からない人物が何かを齧っていた。どうやら、それは木材の破片みたいだった。
「そ、それ、美味しいんですか……?」
俺は思わず訊ねていた。
「はち、み、つ、は、ちみつ付けて、味付く…………」
がりぃがりぃ、がりぃがりぃ、と部屋の中で音がしていた。
白髪の人物はいきなりゲラゲラと笑い始める。
「あの、すみません。ここに泊まらせていただけませんか?」
俺は軽く頭を下げる。
アオリさんは半分以上の歯が欠落した口を開いて、にっこりと笑っていた。
それから、何日かは俺とアオリさんの共同生活が始まった。
話していくうちに、アオリさんが他のホームレス達から嫌われるようになったのは、彼らの酒や小銭を窃盗する癖が治らなかったらしい。また、宇宙から頻繁に言葉が聞こえてくる為に、ひと際、おかしな事ばかり言っているアオリさんをホームレス仲間達は嫌がったらしい。ホームレスの中には、階級や派閥といった強い人間関係が存在するという事を、アオリさんはつたない言葉で二時間くらいに渡って俺に説明してくれた。途中、いわゆる電波的なおかしな話をして何を言っているのかよく分からない事もあったが、根は悪い人では無いのだろうなあと思った。
人に虐げられて育ってきた俺は、ここまで嫌われているアオリさんに妙な親近感というか、ある種の尊敬のようなものを覚えてしまった。
アオリさんは生肉を食べる癖があるらしい。
何度も食中毒で死に掛けた、と言っていた。
昆虫や野良犬、野良猫は貴重なタンパク質だとも言っていた。本当は焼いて食べた方が食中毒や寄生虫の危険性が無くて済むが、どうしても、億劫になって、生のまま口にしてしまうらしい。
そうして、俺とアオリさんの生活は続いた。
二、三ヵ月くらいは俺はアオリさんにホームレスとしての生活を教えて貰っていたと思う。残飯の取りやすい場所だとか、山に食べられる野草を探しに行く事だとか、金持ちの家の近くのゴミ捨て場から家具や服、古本を漁ったりする方法を教えて貰った。また、そこで漁ったものを買ってくれる質屋や骨董屋、古本屋なども教えて貰った。
たまに、窓ガラスが割れていたり、家の中に爆竹が投げられて時もあったが、アオリさんは気にするな、と言ってくれた。
ある日、アオリさんと俺の二人が住んでいる、この廃屋に、何者かが放火した。家にガソリンがまかれており、廃屋全体に炎が燃え広がっていた。アオリさんは俺を叩き起こして、何とか逃がそうとしていた。
「な、なんで、なんで、家が燃えて…………、……」
「い、い、嫌なやつ、ら、あたし、ら、ホームレスを虐めて……、楽しん、で…………」
アオリさんは足が悪かった。
とにかく、俺には逃げろとだけ叫んでいた。
俺は煙の中を何とか這い出して、外に出る事が出ていた。
真夏の暑い日の深夜、アオリさんは何者かがつけた火によって全身が焙られて、生きながら焼け死んでいった事を俺は目の前で焼き付ける事になった。
ホームレス達は一般市民から怖がられている。
アオリさんに至っては、ホームレス仲間でさえ怖がられ、嫌われていた。
けれど、何者かの悪戯によって、アオリさんは全身を火だるまにされて生きながら焼け死ぬ事になった。俺はTVニュースになるかと思って、交差点などのTVを見ていたが、ついにアオリさんの家が放火された事はニュースにならなかった。
怖いのは、どちらなのだろうか……?
後にネットで調べたところ、アオリさんの廃屋は無名のブロガーが小さく記事にしており、謎の放火事件と書かれていた。新聞やTVといったあらゆる媒体でも、放火事件は報道されなかった。もちろん、犯人が捕まった事は知らされていない。
そういえば、アオリさんの廃屋の外壁には、大量のイタズラ書きがされていた事を思い出す。悪意のある人間が以前から沢山いたのだろう。
あれから、二年ほどが過ぎた。
色々あって、俺は生活保護を受給して雨風をしのげる普通のアパートに住む事が出来るようになった。国の金で生活していて申し訳ないと思っている。
一応、就労支援所のB型作業所なる場所に通っていて、軽作業なるものをやっている。
医者からは重い躁鬱の診断が下っている為に、中々、普通の職業に就く事は難しいが、いつか工場や清掃員の仕事にありつけたら良いと思っている。
俺は思う、アオリさんは俺には優しかった。
アオリさんを忌々しい者として、殺した奴は、一体、何を考えて生きているのだろうかと。アオリさんが何処からか集めてきた小銭で奢ってくれた安いチューハイの味を、俺は今でも忘れられずにいる…………。
了