想像という虚像の世界

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コラム
おはようございます。


今窓の外にはキジの雄と雌がいます。
ケーケーと鳴いていましたが、雌を呼び寄せたみたいです^^

そして、昨日娘はお散歩中、シロサギに追いかけられたそうです。
久しぶりに猛ダッシュする経験したと・・・
人と動物も身近になってきてるようですね。


そんな娘は就職活動中で編集する仕事がしたいようで
今日はその仕事先から大事な結果がくるようです。
落ちるか受かるのかわかりませんが、
それも間違いのないいのちの表現が
起きてきます。
そのようにそのように・・・・


そんな娘にブログを読んでもらいましたが
添削満載のようでした。笑
ただただ、感じたことの表現ですから
読み手にとってはわかりにくい。
もっと具体例を出してあげないとということでした。
(でも、これからも感じるままの表現になるとは思います)


昨日の想像のお話ですが・・・


私たち人は、というか”私”は安心するように意味づけを探す動きそのものでもあるように感じています。
その内容がここには無い想像だったということなのです。


良い想像の例えでいうと
よく数字の8888を見て、”豊かだな”というように意味づけしていました。
それは、いまここの様子から見ると
ただ”8888という文字を見る”ということが”起きた”。


その出来事に対して何も意味はくっついていません。


悪いと言われる想像といえば
”おみくじで凶がでた。
なにか悪いことが起きるのかもしれない。
何か省みないといけないことがあるのかもしれない。”
というようなもの。


これもまた、ただ”凶という文字を見る”ということが起きただけ。
またこの出来事にも
何も意味はくっついていないのです。


私たちはこのように、起きたことに
様々な意味づけをして、
上がったり下がったりしているのですね。


未来の想像も、
明日何しようかなからはじまり、未来の地球は・・・というような
壮大だと感じられる表現もまた
ここにそのような想像が湧いた。


過去もまた
”あのとき、娘に酷いことを言ってしまったから娘は部屋から出てこなくなってしまった”など・・・
私が言ったことによって起こってしまったという、それがあたかも現実であるかのような想像もまた
いまここに、そのような内容の想像が湧いた。


どれも実体のない想像です。


とても冷たいような表現として受け取られる方もいるかもしれません。
過去のサラさんにとってもそうでした。


その内容について、その人が信じていればいるほどに
この内容は受け入れがたいものとなるように感じています。


想像することや意味付けすることが
悪いことと言っているのではなく、
ただただ事実はそのような様子ですよ。という
お知らせのようなもの。


その様子が見えてくるほどに
個人的なものから全体像というようなものが
明らかになる気がしています。


でもこれが、意味づけ上の 落ちて上がってを繰り返される
一瞬生まれる楽から
永遠の楽のように感じているのでした。





















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