おはようございます。
昨日表現された+の真ん中の視点が
いのちの視点。
思考は次から次へと
この動き関係なく湧いてきます。
とてもリアルです。
それを本当のことだと
私たちは混同してしまっているのですね・・・
いのちの視点は
”私”という中心もなくなっています。
それが溶けているので
起きたことに、あ~だこ~だの
思考に巻き込まれず、
それを超えた+の真ん中で寛いでいられることが
増えてくるのですね。
川の流れそのものというような。
最近は揺さぶられるような現象が
いくつか起きてきました。
そういうことからも
+の真ん中を鍛えられるというのか
いのちへと開かれる一つの扉のように感じます。
サラさんの例えでいうと
評価の欄に、☆一つとともに
”なれなれしく話す気になれなかった”
という表現が起きた時・・・
ここからはえ?少ししか話していないのに。
そんなつもりないのに・・・
など次々に湧いてきました。
そのような表現が良い悪いなく起きた・・・
でも、もうその言葉はここに無く
そのひとときも過ぎ去り無く
今ここには何もありません。
+の真ん中(いのちの視点)は
その中で色々湧いてきますが
ただまた次々と起き続けている。
それに気づいてるような心地かな。
私という視点から見ると
ここからはいつものように変わりなく
お話するが起きてきていた中で
現れた方がそのような解釈として受け取られたというだけ。
もう一つは
電話のほかに、テキストセッションもあるのですが、
メッセージを届けた後に
何のお返事も無く
表現しても、スルーという状態がありました。
最近の詐欺のことがふと浮かんだり
またまた”私の視点”から
判断が起きてきました。
次々と・・・
でも、+(いのちの視点)からは
何も起きていないのです。
ただ思考のあれやこれやの中で
問題としているだけです。
ただただできることをするだけ。
何もないまま
正式な回答となりましたが、
その後、とても忙しくお返事できなかったということを
伝えてくださいました。
いのちの視点は揺るぎなく最強だな~なんて
改めて感じました。
(これもいのちから湧いたものですが)
苦しめているのは思考です。
思考は100パーセントあてになりません。
本当でもありません。
いのちの表現が起きている事実は
今ここに起きている
ここのみです。
本当にシンプルです。
大丈夫です。
その思考放っておいても。
放っておいても、考えなくても
いのちの動きは起きてきます。
+の真ん中で寛いでいましょっ☆