板前さんのラブソング

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コラム
学生の頃いろんなアルバイトをした。中でも一番長続き
したのが旅館のアルバイトだ。

 京都にある某老舗旅館の皿洗いと当直を4年間続けた。
そこには地方から出てきた多くの若い板前さんたちがい
て日々、修行に励んでいた。
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 板前さんたちは深夜までの仕事を終えて入浴を済ませた
後、決まって私が当直をしている事務室に来ていろんな愚
痴や相談をひとしきり語っていくのが常だった。

 その中で特に気の合った年上の板前さんがいた。とても
笑顔が優しい北の訛りのある朴訥な方だった。

 やがて板前さんはギター片手に自作のラブソングを披露
してくるようになった。

 音楽が好きでギターにも興味があった私には、とても楽
しいひと時だったが、

 大学のレポートを宿直中に済ませたいときなどは、
   「この曲で終わんないかな?」と

不謹慎な考えもよぎったものだ。

 事務室の机の上にはぎっしりと自作のレパートリーが書か
れたノートが置かれている。板前さんは1曲終わるたびに
決まって言うのだった。

   「もう、1曲だけ聴いてくれるかあ?」

 僕は反射的に笑顔で答える。「もちろんじゃないですか!
もう朝までやっちゃってください!」と。


 そうした当直日の翌朝は、眠い目をこすりながら電車に
揺られて大学まで向かう僕だった。

 でも、板前さんのラブソングを途中で遮らなかったこと
僕の僕である所以(ゆえん)だと今も思っている。

 当時も今も、そのことにいささかの後悔もない。

 板前さんが同じく眠い目で「悪かったなあ。」とでも言
いたげに、旅館を後にする僕を見る優しい表情が今もかけ
がえのない青春の1ページとして胸に刻まれている。



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