プライドからの脱却3

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コラム
高校と大学生活

 小学生から中学生になった時は、知っている友達や同級生がそのまま移っただけだったので、新しく出会う人は数人程度でした。しかし高校生になると、今度は知ってる人が数人だけで、他は知らない人だらけだったので、カツラを被った自分が、どのような扱いをされてどのような仕打ちをうけるのかが心配で溜まりませんでした。
 何人かの生徒は私の頭に興味を示して、ずっと頭を見つめてきたり、ニヤニヤ笑いながら近づいたりというくらいの事はありましたが、特にいじめのレベルの嫌がらせはなかったです。
 大学生になると、知ってる人は一人もいなくなり、友達ができるのに3か月程掛かりました。ただ高校生の時と比べると、みんなが人として大人になってきているせいもあったのか、特別嫌な対応をされる事はありませんでした。
 ただ唯一やらかしてしまったのが、大学4年生の時に入った研究室での夏合宿の時の事です。その日は飲み会があり、それはとても楽しかったので、つい羽目を外してしまい酔いつぶれてしまったのです。いつの間にか布団に入って眠っていたのですが、朝起きたら、なんとカツラが外れていたのです。
 私は慌てて誰にも気づかれないようにカツラを付けましたが、それをみんなに見られていたようです。ただ研究室の仲間たちはその事には一切触れる事なく、私に気を使ってくれているようでした。その仲間たちは今でも私にとってとても大切な存在であり、繋がる機会はさすがに少なくなりましたが、今でも年賀状でのやり取りは続けています。

母の死

 社会人になるとさすがに嫌がらせを受ける事はありませんでした。私も徐々にではありますが、心も大人になっていき、このままではダメだと思うようになっていきました。そのような気持ちに向かっていたのには、私が33歳時に母が癌になった事が関係していると思います。母は病院嫌いで腹痛の症状が出ても全然病院に行かず、結局我慢出来なくなって検査したらすでに手遅れで、持って3か月と診断を受けました。母はその事をずっと謝っていましたが、私は望みは捨ててはいけないと母を励まし、入退院を繰り返した母にずっと寄り添いました。結局丸1年の闘病生活の末力尽きましたが、母は常に私に対して謝っていました。
 その理由は私が脱毛症になったのは、母である自分が原因だと思っていたからだと思います。母は常に私を厳しく育てました。忘れ物の多かった私は毎日のように怒られ、ビンタされ、夜に外に出されました。その事が恐怖で私は母に怯えていました。その矢先の脱毛症の発症だったので、母はそれを悔やんでいたのだと思います。結局脱毛症の原因は未だに分かっていません。
 母は私が脱毛症になってからは、ガラリと性格が変わったように私に対して優しくなりました。私の人生において何度も母に助けてもらいました。その恩は決して忘れられません。だからというのもあり、脱毛症になったのは母のせいではないという事を母に伝えたかったのですが、なぜかそれを伝えられずに母は亡くなってしまいました。それは今でも後悔しています。

 母の死を受けて、自分はこのままではいけないと思うようになりました。そのもう一つのきっかけは、また次回にお伝えしようと思います。そしてカツラを外すカミングアウトの時期が迫ってきました。

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