「生命倫理と死生学の現在⑰」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

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(6)「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の人生論
②「カルペ・ディエム」(今を生きる)の人生観

「(養護学校で、言葉も十分に話せず、手足も不自由な子どもたちに言語教育をしていた向野幾代先生が、脳性マヒの「やっちゃん」と一緒に作った詩)
 ごめんなさいね おかあさん
 ごめんなさいね おかあさん
 ぼくが生まれて ごめんなさい
 ぼくを背負う かあさんの
 細いうなじに ぼくはいう
 ぼくさえ 生まれなかったら
 かあさんの しらがもなかったろうね
 大きくなった このぼくを
 背負って歩く 悲しさも
 「かたわな子だね」とふりかえる
 つめたい視線に 泣くことも
 ぼくさえ 生まれなかったら
 ありがとう おかあさん
 ありがとう おかあさん
 おかあさんが いるかぎり
 ぼくは生きていくのです
 脳性マヒを 生きていく
 やさしさこそが 大切で
 悲しさこそが 美しい
 そんな 人の生き方を
 教えてくれた おかあさん
 おかあさん
 あなたがそこに いるかぎり」
(向野幾代『お母さん、ぼくが生まれてごめんさない』)

「人間が幸福に生きていくうえで、もっとも大切なもの――それは安定した愛着である。愛着とは、人と人との絆を結ぶ能力であり、人格のもっとも土台の部分を形造っている。人はそれぞれ特有の愛着スタイルをもっていて、どういう愛着スタイルをもつかにより、対人関係や愛情生活だけでなく、仕事の仕方や人生に対する姿勢まで大きく左右されるのである。
 安定した愛着スタイルをもつことができた人は、対人関係においても、仕事においても、高い適応力を示す。人とうまくやっていくだけでなく、深い信頼関係を築き、それを長年にわたって維持していくことで、大きな人生の果実を手に入れやすい。どんな相手に対してもきちんと自分を主張し、同時に不要な衝突や孤立を避けることができる。困ったときは助けを求め、自分の身を上手に守ることで、ストレスからうつになることも少ない。人に受けいれられ、人を受けいれることで、成功のチャンスをつかみ、それを発展させていきやすい。
 従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと考えられるようになっている。しかも、今日、社会問題となっているさまざまな困難や障害に関わっていることが明らかとなってきたのである。
 たとえば、うつや不安障害、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症、※境界性パーソナリティ障害や過食症といった現代社会を特徴づける精神的なトラブルの多くにおいて、その要因やリスク・ファクターになっているばかりか、離婚や家庭の崩壊、虐待やネグレクト、結婚や子どもをもつことの回避、社会に出ることへの拒否、非行や犯罪といったさまざまな問題の背景の重要なファクターとしても、クローズアップされているのである。
 さらに、昨今、「発達障害」ということが盛んに言われ、それが子どもだけでなく、大人にも少なくないことが知られるようになっているが、この発達の問題の背景には、実はかなりの割合で愛着の問題が関係しているのである。実際、愛着障害が、発達障害として診断されているケースも多い。
 筆者は、パーソナリティ障害や発達障害を抱えた若者の治療に、長年にわたって関わってきた。その根底にある問題として常々感じてきたことは、どういう愛情環境、養育環境で育ってきたのかということが、パーソナリティ障害は言うまでもなく、発達障害として扱われているケースの多くにも、少なからず影響しているということである。困難なケースほど、愛着の問題が絡まっており、そのことで症状が複雑化し、対処しにくくなっている。
 愛着が、その後の発達や、人格形成の土台となることを考えれば、至極当然のことだろう。どういう愛着が育まれるかということは、先天的にもって生まれた遺伝的要因に勝るとも劣らないほどの影響を、その人の一生に及ぼすのである。その意味で、愛着スタイルは、「第二の遺伝子」と言えるほどなのである。」
(岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』)
※境界性パーソナリティ障害…対人関係の不安定性および過敏性、自己像の不安定性、極度の気分変動、ならびに衝動性の広汎なパターンを特徴とする。

【人間通】(埼玉医科大学附属総合医療センター看護専門学校2022年度出題)
「「人間通」とは、他人(ひと)の心がわかる人のことである、と、私は思う。まず、人心つくような年頃になれば、両親や兄弟がどういう心持ちでいるかを、直感的に知らねばならない。長じては、友人がどんな気持ちでいるかを、ごく自然に察する必要がある。学校の先生もまた、喜怒哀楽を内に包んでいる人なのだから、さまざまな場合に応じて、その機嫌工合(きげんぐあい)を感じとらなければならないであろう。ここまでが言わば序の口で、まだ広い世の中に出ていない段階なのであるから、そんなに深く気にしなくてもよいように思われるかもしれない。
 しかし、実は、この成長過程における精神的な修業が、結果として、一生を過ごしてゆく生き方を大きく左右するのである。思えば、両親および兄弟姉妹、人間にとって、これほど身近な存在はほかにない。もっとも密着した、もっとも親しい間柄である。しかも、生涯を通じて、決して切ることのできない絆である。これほど固く結ばれた人間関係のなかにあって、もし相手の気持ちをわかることのできない人があるとすれば、その人は年齢を加えてのち、どうして赤の他人の気心を察することができるであろうか。
 幼いうち、或(あるい)は若いとき、大きくなったらどんな仕事をしようかと、いろいろ夢に描く場合があろう。それは至って自然なことである。しかし、大きくなったら人間通になろう、などと考えることは滑稽である。実際には子供のときがいちばん大事なのだ。両親にはぐくまれて、温かい家庭のなかで育ち、まだ世間の風にあたっていないその時分こそ、その人が将来、大人としての人間通になれるかどうかの分かれ目なのである。人間通の芽は子供のときに芽生えるのであることを忘れてはならない。
 兄弟は他人のはじまりとも言うから、ひとまず後まわしにするとしよう。問題は両親である。人間は、かならず特定の両親の間に生まれる。そして両親の愛護を受けて育つ。この緊密な関係のもとにおいて、父と母の心情を理解できないようでは、他人の心持ちを忖度(そんたく)する方法がないではないか。父と母とが何を考えているかを親身になって推察する努力こそが、人を人間通に育てあげる出発点である。父と母と、この世でもっとも大切なこの二人に向かって、すなわち子供にとってもっとも親密な相手に対して、思い遣(や)りの感情を抱けない者が、どうして他人に愛着をもつことができるだろうか。
 昔から、孝は百行の本、と言い習わす。これは決して強制なのではない。孝の情、これこそ人間愛の出発点だという意味である。親を愛することのできない精神的欠落者が、どうして他人を愛することができようか。孝とは、ひとりの人間を、情愛のゆたかな人物に育てあげる有効な発条(バネ)なのである。
 さて、成人して社会へ出る。気心の知れない他人のなかに交じって生きてゆかねばならない。その場合における最低限の心得を、孔子が論語の第二百八十章に説いている。すなわち、自分が他人からされたくないと思うようなことを他人に対してするようなことがあってはならないよ、というわけである。これは誰でも守れる戒律であり、誰でも実行できる心得であろう。
 自分のまわりにいる者すべてから、あの人は自分たちに対して敵意を抱かず、自分たちに害を加えないこと確実だな、と思われるに至ったら、その人の人生はまことに順調であるだろう。人間にとっていちばん大切な財産は、人から信用されることである。
 以上が人間通としての第一段階である言えよう。さらに進んで、より人間的に成長しようと思えば、同僚ひとりひとりの心がわかる境地に達しなければいけない。この、相手の心がわかる、という抽象的な言い方を、より具体的に言いかえるなら、相手がなにを褒めてもらいたいと思っているか、その心の奥底を感知する能力のことである。
 人間は、どんなに外面(そとづら)では謙虚な人でも、実体は自尊心のかたまりである。それは当然のことであって、どんな生き物にせよ、自分に最高至上の価値を認めているからこそ生きてゆけるのである。ましてや人間は精神活動がとびぬけて活潑(かっぱつ)な動物なのだから、自分をこの世でもっとも尊い存在であると考えているのは当たり前であろう。
 すでにして心のいちばん深いところで自尊心が疼(うず)いている。自尊心が満足を求めている。自尊心の満足とはなにか。それは、しっかりした人物から自分が褒めてもらうことである。
 貴方(あなた)は素晴らしいお人だと囃(はや)したてられたいのである。人間の肉体は良い食物を欲する。人間の精神は佳(よ)い評判を欲する。この点に関する限り人の世に例外は絶対にない。
 ゆえに、人間通とは、それぞれの人に対して、相手がもっとも認められたいと願っているところは何かを察知し、その方角に向かって狙いあやまたず、積極的に褒めてやる心遣いを意味する。これは費用のかからない親切である。誰でもできることではないが。「人間通」とは、褒め上手のことなのである。」
(矢沢永一『達人観』)
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