「生命倫理と死生学の現在⑥」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(2)「生命倫理」の柱となった「自己決定権」の意義
③「生命倫理」はどこまで確立されたのか

「生殖医療」(reproductive health care)~不妊治療の急速な発展は「生殖革命」と呼ばれるほどの成果を生み出してきました。根津八紘(やひろ)・諏訪マタニティークリニック院長(長野県下諏訪町)は、2001年に国内初の代理母出産を明らかにしました。「代理出産」(surrogate mother)は米国などで行なわれており、渡米して治療を受ける女性もいますが、倫理面の批判がある上、妊娠・出産によるリスクも大きいのです。このため、日本産婦人科学会が認めておらず、海外でもフランス、ドイツなどでは法律で禁止されています。一方、米国では国レベルの法規制が無く、州によってはビジネスとして行われており、日本から渡米して受ける夫婦もいます。イギリスでは高額の謝礼をしないなどを条件に容認しています。
 根津院長は、1986年に4つ子や5つ子などを妊娠した場合に母体内で胎児を死亡させる「減数手術」(reduction surgery)を日本で初めて実施しています。当時、日本母性保護産婦人科医会が公式に認めていない手術でしたが、根津院長は「困っている患者を救う方法は他に無い」とし、後にこれは認められていきます。さらに1998年6月、根津院長は卵子提供による国内初の非配偶者間の体外受精を行なったことを公表し、日本産婦人科学会から除名されました。しかし、これを機に旧厚生省厚生科学審議会の専門委員会が生殖医療の指針作りに乗り出し、卵子・精子提供を認める報告書をまとめています。しかしながら、代理出産については、「安全性が確保できず、とうてい容認できない」「女性は子供を産む道具ではない」「子供の家庭環境が複雑になり、子供の福祉が保証できない」として禁止し、罰則を設ける方針を打ち出しました(2000年12月)。
 国内でも2021年には出生児の11.6人に1人は体外受精児であり、これほど短時間で発展し、定着した医療は余り例がありませんが、倫理的な議論を抜きに次々と先行する水面下の生殖医療の実態があります。夢の技術が次々と現実になる一方で、倫理問題の整理がきちんとなされていないのが現状で、生命倫理の確立と医療技術の進歩の整合が急務であると言えます。

「生殖ビジネス」(fertilization business)~厚生労働省によれば、日本では不妊に悩む夫婦は約2.6組に1組、実際に不妊検査や治療を受けたことがある夫婦は約4.4組に1組と言われていまが、厚生労働省が公表した「不妊治療の実態に関する調査研究」(2020年度)によると、検査のみやタイミング法の経験者は10万円未満の割合が約7割。一方で、体外受精や顕微授精を経験した人は、医療費の総額が100万円以上の割合が半数を超え、200万円以上を費やした人も3割弱いました。2022年から不妊治療が保険の適用対象となり、医療費は原則3割負担となりますが、保険が適用される年齢は女性が43歳未満、回数は子ども一人につき最大6回までなどの制限があります。
 また、渡米して代理出産を依頼する場合、代理出産者への謝礼約230万円を含め、仲介料、医療費、渡航費用など1,000万円程度必要になるとされます。卵子提供の費用は米国で500万円、台湾で100万円~200万円程度が相場とされます。

「生まれる子どもの福祉」~生殖ビジネスが成立する米国では、精子や卵子を提供した「生物学的親」を求め、子どもが「家族探し」の旅をすることが少なくありません。また、イギリス・フランスは共に「生まれる子どもの福祉」という視点を立法の際の基盤に据えて、非配偶者間の体外受精を容認していますが、フランスでは子供に「生物学的親を知る権利」「出自を知る権利」を認めず、現存する家族の安定を尊重し、イギリスでは子どもに「生物学的親を知る権利」「出自を知る権利」を認めています。何をもって「子どもの福祉」と考えるかが違うのです。

【テクノロジー論】(東京大学文科前期2017年度出題)
 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発によって解決しようというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。科学技術によって産み落とされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染防止のためのワクチンに対してウィルスが、耐性を備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のように耳にする話である。餓死日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことによって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開にはたして終わりがあるのだろうかという気がした。技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。次のステージになにが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども、科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無を言わせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんであり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。
 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工授精という技術を開発してきた。その一つ体外受精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といったことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。
 いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外受精に比してより身近に起こっている延命措置の問題。たとえば胃瘻(いろう)などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、かなり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはずの人間の生命を救済し、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。
 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一緒である。テクネ―(τέχνη)である技術は、ドイツ語Kunstの語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと(sollen)」とは区別されねばならない。
 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りにところでは、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。
 テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲(ほうてき)するのであり、放擲された人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。
 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非を決めることはできないが、その技術と出会い、行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」が二〇一三年四月に導入されて以来、一年の間に、追加の羊水検査で異常が認められた妊婦の九七%が中絶を選んだという。
 療養型施設における胃瘻や経管栄養が前提としている生命の可能な限りの延長は、否定しがたいものだし、それを入所条件として掲げる施設があることも、私自身経験して知っている。だが、飢えて死んでいく子供たちが世界に数えきれないほど存在している現実を前にするならば、自ら食事をとることができなくなった老人の生命を、公的資金の投入まで行なって維持していくことが、社会的正義にかなうかどうか、少なくとも私自身は躊躇(ちゅうちょ)なく判断することができない。
 ここで判断の是非を問題にしようというのでは、もちろんないし、選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基準があるなどとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、そういう意味で実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。
 たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任(レスポンジビリティー)によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在存在しないものに対する責任など、応答(レスポンス)の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。同じ想像力を別方向に向ければ、そもそも人類の存続などといったことが、この生物種に宿る尊大な欲望でしかなく、人類が、他の生物種から天然痘や梅毒のように根絶を祈願されたとしても、かかる人類殲滅(せんめつ)の野望は、人間がこれら己れの敵に対してもっている憎悪と、本質的には寸分の違いもないといいうるだろう。その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。主体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しもが経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変性をまざまざと表わしている。また「コンセンサス」づくりの「公聴会」なるものが権力関係の追認でしかないことは、私たち自身、いやというほど繰り返し経験していることではなかろうか。
 だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発に留まるならば、それはほとんど意味もないことだろう。虚構とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚構を紡ぎ出すことによって己れを支えているといってもよい。問題は、テクノロジーの発展において、虚構のあり方が大きく変わったところにある。テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、人間が従来それに即して自らを律してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質を余儀なくさせた。それは、不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことができた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でテクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう。
(伊藤徹『芸術家たちの精神史』一部省略 第六章「神々の永遠の争い」を生きる 一 神々の永遠の争い、ナカニシヤ出版)
*排卵誘発剤…卵巣からの排卵を促進する薬。
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