「生命倫理と死生学の現在⑤」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(2)「生命倫理」の柱となった「自己決定権」の意義
②「人格権」としての「自己決定権」の尊重

「生命倫理」(bioethics)~1960年代後半から形成されてきた新しい統合的学問分野で、一人一人を「生命の主権者」として、各自の価値判断やライフスタイルを大切にするという自己決定(autonomy)権の尊重という価値観・発想が根底にあります。その基本原則として、『生命医学倫理の諸原則』でトム・L・ビーチャムとジェイムズ・F・チルドレスが提唱した「医療倫理の四原則」が挙げられます。
①自律性・自己決定の尊重(respect for autonomy):患者の意思を尊重しましょう。
②無危害(non-maleficence):患者に害を加えないようにしましょう。
③善行(beneficence):患者に善いことを行いましょう。
④正義・公正(justice):限りある医療資源を公正に配分しましょう。
 これは、医療において倫理的な問題に直面したとき医療従事者はどのように対処すべきか、その指針となるものです。

「インフォームド・コンセント」(informed consent)~「説明と同意」「知らされた上での同意」「十分な説明に基づく同意」。基本的にインフォームド・コンセントとは、患者個人の権利(自己の真実を知る権利)と医師の義務(守秘義務と説明義務)という見地から見た法的概念です。ここには医師と患者との関係が、日本の医療現場でありがちな上下・主従・一方通行的なものではなく、同意に基づいた対等・平等な関係であるという考えが前提として存在しています。これは、「患者の生命・身体についての価値判断の最終決定権は患者自身にある」という生命倫理(バイオエシックス)の考え方が医療の場に受け入れられ、医療供給者である医師中心の発想が大きく変化したものです。医療を受ける患者側の発想を中心にしたインフォームド・コンセントは、欧米諸国では臨床の現場でも法的にも確立した原理となっています。
 ちなみに医師の説明は、法的には診療契約に基づく義務とされ、次の2段階があります。
①医療者(主として医師)は、患者に現状と治療の可能性について説明をする。
②患者はそれを理解した上で、医師が薦める治療方針に対して同意する、あるいは複数の選択肢の中から希望するものを選ぶ(治療を拒否するというのも選択肢の一つ)。

「説明責任」(accountability)~医療で言うインフォームド・コンセントは「説明責任」につながります。医療を神聖視せず、他の医師のセカンドオピニオン(second opinion)を遠慮無く聞いてこそ、説明責任は定着するはずですが、日本には民主政治の原点となるアカウンタビリティーが育っていないと指摘されています。
 また、輸血拒否事件の判決は「自己決定権」を私的な医療契約上の権利としてではなく、最高裁が初めて「憲法上の権利」として位置付けた点に大きな意味があるとされますが、「人格権」は憲法13条(個人の尊厳)から導かれる幅広い概念とされ、判決の趣旨を一般化すれば、輸血問題だけではなく、がん告知の徹底、終末期医療や遺伝診断のあり方、新薬治験への参加、臓器移植、カルテ開示など現代医療の様々な分野で、自己決定権の尊重が求められ、そのためにインフォームド・コンセントの実践が迫られることになります。

【「まなざしの人間関係」から「手の人間関係」へ】
(東京都立大学文系前期2022年度出題)

 日本語には触覚に関する二つの動詞があります。
①さわる
②ふれる
 英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。
 たとえば、怪我をした場合を考えてみましょう。傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。
 では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかも知れないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。
 虫や動物を前にした場合はどうでしょうか。「怖くてさわれない」とは言いますが、「怖くてふれられない」とは言いません。物に対する触覚も同じです。スライムや布地の質感を確かめてほしいとき、私たちは「さわってごらん」と言うのであって、「ふれてごらん」とは言いません。
 不可解なのは、気体の場合です。部屋の中の目に見えない空気を、「さわる」ことは基本的にできません。ところが、窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことはできるのです。
 抽象的な触覚もあります。会議などで特定の話題に言及することは「ふれる」ですが、すべてを話すわけではない場合には、「さわりだけ」になります。あるいは怒りの感情はどうでしょう。「逆にふれる」というと怒りを爆発させるイメージがありますが、「神経にさわる」というと必ずしも怒りを外に出さず、イライラと腹立たしく思っている状況を指します。
 つまり私たちは、「さわる」と「ふれる」という二つの触覚に関する動詞を、状況に応じて、無意識に使い分けているのです。もちろん曖昧な部分もたくさんあります。「さわる」と「ふれる」の両方が使える場合もあるでしょう。けれども、そこに私たちは微妙な意味の違いを感じとっている。同じ触覚なのに、いくつかの種類があるのです。
 哲学の立場からこの違いに注目したのが、*1坂部恵です。
愛する人の体にふれることと、単にたとえば電車のなかで痴漢が見ず知らずの異性  の体にさわることは、いうまでもなく同じ位相における体験ないし行動ではない。
一言でいえば、ふれるという体験にある相互入の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さらるということの場合には抜け落ちて、ここでは内―外、自―他、受動―能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。
 「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。
 言い換えれば、「触れる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。
 重要なのは、相手が人間だからといって、必ずしもかかわりが人間的であるとは限らない、ということです。坂部があげている痴漢の例のように、相手の同意がないにもかかわらず、つまり相手を物として扱って、ただ自分の欲望を満足させるために一方的に行為におよぶのは、「さわる」であると言わなければなりません。傷口に「さわる」のが痛そうなのは、それが一方的で、さわられる側の心情を無視しているように感じられるからです。そこには「ふれる」のような相互性、つまり相手の痛みをおもんぱかるような配慮はありません。
 もっとも、人間の体を「さわる」こと、つまり物のように扱うことが、必ずしも「悪」とは限りません。たとえば医師が患者の体を触診する場合。お腹の張り具合を調べたり、しこりの状態を確認したりする場合には、「さわる」と言うほうが自然です。触診は、医師の専門的な知識を前提とした触覚です。ある意味で、医師は患者の体を科学の対象として見ている、この態度表明が「さわる」であると考えられます。
 同じように、相手が人間でないからといって、必ずしもかかわりが非人間的であるとは限りません。物であったとしても、それが一点物のうつわで、作り手に思いをせながら、あるいは壊れないように気をつけながら、いつくしむようにかかわるのは「ふれる」です。では「外の空気にふれる」はどうでしょう。対象が気体である場合には、ふれようとするこちらの意志だけでなく、実際に流れ込んでくるという気体側のアプローチが必要です。この出会いの相互性が「ふれる」という言葉の使用を引き寄せていると考えられます。
 人間を物にように「さわる」こともできるし、物に人間のように「ふれる」こともできる。このことが示しているのは、「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」つもりだったものが「ふれる」になることもある、ということです。
 相手が人間である場合には、この違いは非常に大きな意味を持ちます。たとえば、障害や病気とともに生きる人、あるいはお年寄りの体にかかわるとき、冒頭に出した傷に「ふれる」はよいが、「さわる」は痛い、という例は、より一般的な言い方をすれば「ケアとは何か」という問題に直結します。
 ケアの場面で、「ふれて」ほしいときに「さわら」れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように「さわる」が想定される場面で過剰に「ふれる」が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。ケアの場面において、「ふれる」と「さわる」を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねないのです。
 あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。相手は自分のことをどう思っているのか。あるいは、どうしようとしているのか。「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもあるでしょう。こうしたことすべてをひっくるめて、接触面には「人間関係」があります。
 この接触面の人間関係は、ケアの場面はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で、私たちが出会うことになる人間関係です。そこで経験する人間関係、つまりさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与えるでしょう。
 「よき生き方」ならぬ「よきさわり方/ふれ方」とは何なのか。触覚の最大のポイントは、それが親密さにも、暴力にも通じているということです。人が人の体にさわる/ふれる
とき、そこにはどのような緊張や信頼、あるいは交渉や譲歩が交わされているのか。つまり触覚の倫理とは何なのか。
 触覚を担うのは手だけではありませんが、人間関係という意味で主要な役割を果たすのはやはり手です。さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること。これがここでのテーマです。
 私がこの問題に関心をもつようになったきっかけは、単純に、人の体にさわる/ふれる経験が増えたからです。
 私は、目が見えない人や耳の聞こえない人、のある人、四肢を切断した人など、さまざまな障害とともに生きる人が、その体をどのように使いこなし、それとどのように付き合っているのか、ご本人にインタビューをしながら研究をすすめています。インタビューというのは実はインタビュー以外の時間が重要で、その人が待ち合わせ場所で待っているときの姿勢や、コンビニで買いものをするときの様子、信号の渡り方など、何気なく行われるそうした動作にたくさんのヒントが含まれています。
 特に目の見えない人とかかわる場合、インタビュー以外の時間は、その人を介助する時間でもあります。具体的には、自分の肘や肩に手を添えてもらい、インタビューを行う場所まで一緒に移動するのです。
 その介助が、私はとても下手くそなのです。単に勉強不足で、アドリブの我流でやっているからなのですが、毎回新鮮な気持ちでドキドキしてしまいます。慌てて階段を斜めに上っては(階段では段差に対して垂直に進むのがセオリー)、「だめだよ~」と当事者に注意される始末。「介助できない研究者」と笑われています。
 それでも、触覚を通じて人と関係をつくるそうした機会は、私にとってはとても楽しい時間です。介助のスキルも大事なのですが、そこにはスキル以上の、何か重要な学びがあるように思えるのです。それは、このような研究を始めるまえの、文学部出身者らしく書庫の奥で文献を漁っていた時にはなかった、「触覚の目覚め」を私にもたらしました。
 「目覚め」をさらに押し進めたのは、視覚障害者向けのランニング伴走体験でした。目の見えない人を伴走する体験も面白かったのですが、特に衝撃を受けたのは、その逆、つまり自分がアイマスクをして目の見える人に伴走してもらう、ブラインドランの体験でした。
 最初にアイマスクをして走ることになったとき、私はパニックに近い恐怖に襲われていました。伴走者といっしょに走るには、小さなロープを輪っかにして、その両端をブラインドランナーと伴走者がそれぞれ握り、腕の振りをシンクロさせながら横に並んで走ります。ロープを介しているので間接的な接触になりますが、それでも相手の動きや意図を、ロープを通してしっかりと感じることができるはずでした。
 ところが、いざ走ろうとすると、周囲が確認できないことによる恐怖で、どうしても足がすくんでしまうのです。視覚を遮断しているにもかかわらず、木の枝や段差など行く手を阻むものがそこに「見えた」ほどでした。
 けれども、ある瞬間に覚悟を決めました。伴走をしてくれているのは、サークルのリーダーも務める、ベテラン中のベテランです。この方の素晴らしい導きと、これまでにたくさんの視覚障害者たちが視覚を使わずに走ってきたという歴史がある。それを信じて、身をあずけてしまおう。そう腹をくくったのです。
 それ以降の時間の、何と心地よかったことか。最初は歩くことしかできませんでしたが、すぐに走れるようになり、二〇分ほど走ったあとには、全身が経験したことのないような深い快感に包まれていました。
 同時に私は然としました。自分がそれまでいかに「人に身をあずける」ということをしてこなかったか、ということに気づかされたのです。まるで拾われてきた猫みたいです。人を信じようとせず、誰からも距離をとろうとして、そのことを自立と勘違いしてきたのかもしれない。それは脳天に衝撃が走るようなショックでした。
 目が見えると、外界から得る情報は視覚に頼りがちになります。同じように、人間関係もまた、視覚に依存しがちになります。目があったら挨拶するし、逆に関心がないことを示すために目をらすこともあります。「目上の人」「お目にかかる」といった言い回しも視覚の重要性を表しているし、口先の言葉よりも目にこそ本心が宿ると考えられたりもします。ここでは文化ごとの接触の度合いの違いに触れることはしませんが、特に日本のようにハグや握手の習慣のない社会では、視覚の割合はいっそう高くなりがちです。
 ブラインドランが教えてくれたのは、視覚だけが他者と関係する手段ではない、という当たり前の事実でした。
 視覚は相手との距離を前提にした感覚なので、人間関係にも、距離をもたらします。ところが、触覚は違います。信頼して相手に身をあずけると、あずけた分だけ相手のことを知ることができる、そんな人間関係もあるのです。
 「まなざしの人間関係」から「手の人間関係」へ。目の見えない人との関わりが教えてくれたのは、そんな認識論と倫理学が交わる領域でした。
(伊藤亜紗『手の倫理』より。一部改変)
*1  坂部恵…『仮面の解釈学』などの著書を持つ哲学者(1936~2009年)。
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