「生命倫理と死生学の現在③」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(1)「生殖革命」でゆらぐ「生命の尊厳」という原点
③「SOL」(生命の尊厳)とは何か

「SOL」(Sanctity of Life、生命の尊厳)~「人は受精した瞬間から人である」という概念を持ち、「生きるに値しない命はない」ことを主題としています。これに対して、QOL(Quality of Life、人生・生活の質)は極論すれば「生命活動を行うに値する命」を重要とし、それ以外の命を否定する側面を持ちます。そのため、例えば人工中絶においては、SOLでは人工中絶を否定しますが、QOLでは許容します。 また、例えば植物状態に陥った人間に対しては、SOLでは生存させることを許容しますが、QOLでは生存を否定します。
SOLとQOLのこの種の対立はしばしば人権問題や生命倫理とも絡みながら議論されることがあり、医療関係者や専門家においても意見は分かれています。 歴史的にはSOLの概念がより古いのです。

「SOL」の基本原則~生命(特に人の命)は無条件に尊いとし、以下の3原則が打ち出されています。
①人為的に人の死を導いてはならない(正当防衛を除き、殺人は許されない)。
②第三者がある人の命の値うちを問うことはできない。
③全ての人命は平等に扱われなければならない(人の命の価値を比較してはならない)。
 この倫理に基づけば、医療現場で医師は最後まで(可能な限り)患者の延命を続けなくてはならないという主張になります(脳死状態は死とみなさない)。SOL倫理は仏教やローマカトリックと同じ生命観になります。この立場に立つと、以下の倫理観を持つことになります。
①殺人してはいけない。(積極的)安楽死を認めない。
②胎児(受精卵、胚の時期を含む)の中絶は殺人に該当する。
③脳死者は心停止、呼吸停止が伴わない限り死者ではない。→臓器摘出を認めない。

「近ごろ私は、『生命の質』という言葉を、しみじみと噛みしめたくなるような経験をした。私が戦争中に疎開していた家を四十年ぶりにたずねた。伊那の山の中である。お世話になった小父さんは八十八歳の高齢にもかかわらず、私のことを良く覚えていてくれた。世話をしている息子さんとお嫁さんの話だと、小父さんはかなり弱っているのに畑に出るのが大好きで、ひとりで出かけるのだという。耕うん機にのって出かけたものの帰りにはエンジンをかけられなくなって歩いてきたことがあるという。林檎の袋かけをしたというので、後でお嫁さんが見たら、葉に袋がかかっていたという。
 息子さんが『お医者さんは,ほんとうはもう入院しなくてはいけないと言うんですが,入院したらおしまいだから』と言う。『入院したらおしまいだ』というのは、入院したら命があぶないという意味ではない。もしかすると入院したほうが長生きできるかもしれない。しかし畑に出るとか、人と話をするとかいう自然な暮らしはできなくなる。自然な暮らしができるということが、小父さんにとってのQOL(生命の質)なのである。薬づけになって一日中ベッドで横になり、話相手もいないという生活をさせたくないというのが、息子さん夫婦の願いである。
 病院で治療をうければ少しは長生きするかもしれないが、それでは毎日が生きている意味もないような味気ないものになってしまう。こういう理由で入院を避けて、在宅を選ぶ人が多くなっていく。ただ生きることよりも、良く生きることを選ぶという態度である。
 しかし人間が安直に命を縮めるようなことをしていいわけはない。生命には侵してならない尊厳・神聖性がある。生命の神聖性(サンクティテイ・オブ・ライフ)を略してSOLという。このSOLという原理には、いつでも,どこでも,だれにでも同じに適用できるという強みがある。生命の尊厳には,大人と子供の区別はない。金持ちと貧乏人の区別もない。
 人類は生命の専厳(SOL)という原理を、『人間の生命はどのような犠牲を払ってでも延長するように努力しなければならない』と解釈してきた。ところが、生命の専厳とは、ただやみくもに生物としての命を延長すればいいということではないという考え方がでてきた。SOLをQOLに引きつけて解釈する態度である。『入院するより在宅のままでいたい』という態度もそのひとつである。
 生きるか死ぬかではなくて、いかに生きるかが判断の基準となる時代になつている。その背景にあるのは,死亡原因の変化である。感染病から成人病に死亡原因の中心が移ってしまった。たとえば腸チフスに感染すれば、ただちに死ぬか生きるかが問題になり、いずれにせよ決着は短い日数内につく。
 成人病の代表として高血圧を考えてみよう。悪いとはいえ、ただちに生死にかかわるわけではない。そのかわりに完全に治るということもない。患者は結局いつまでも高血圧という症状をかかえこんだままで生き続ける。
 短期間で決着のつく病気であれば,対策の主役は治療(キュア)である。長期にわたる病気では治療よりも看護(ケア)が重要になる。看護が治療の補佐役という位置から独立して、ある種の成人病では対策の主役になる。治療から独立した看護の基本は人間を人間としてあつかうことである。すなわち生命の質(QOL)が看護(ケア)の本質になる。これにたいして古い意味での生命の尊厳(SOL)は治療(キュア)の原理である。人間らしく看護することで病気そのものが快癒する場合もある。」(加藤尚武『二十一世紀のエチカ』より抜粋)

「生命への畏敬」~神学者、哲学者、オルガニストとしても知られるシュバイツァーが、アフリカでキリスト教布教活動と医療活動を行い、ヨーロッパの古き良き人文主義の伝統を引き継ぎながら、20世紀の人類社会が直面する問題を解決するために編み出した概念です。シュバイツァーはフランスの実存主義の哲学者サルトルの親戚でもあり、30歳になってから改めて医学を学び、39歳にアフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネへ向かいました。現地では「オガンガ」(命を与え、奪う者。麻酔を使ったからです)「密林の聖者」と呼ばれ、後にノーベル平和賞を受賞しています。シュヴァイツァーは全ての生命には生きようとする意志が見出されるとし、全ての生命を尊重する「生命への畏敬」を倫理の根本原理とし、あらゆる生物の命を尊ぶことが人間の責任だと説きました。
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