あげる、も、もらう、も、同じこと。宇宙には「恩返し」など存在しません。

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「私はひとから頼られてばかり、奪われてばかりです」とか、反対に「私は周りの世話になってばかりで、何の役にも立っていません」とかいう悩みをよく聞きます。
でも本当は、宇宙では「あげる」と「もらう」は同じもので、エネルギーが入れ替わっているだけのことです。鏡にうつった自分に対して何かを差し出しているようなもので、「してあげる」時、同時に、相手から「してもらって」いる。だから、常に貸しも借りもなく、関係性は常にフラットです。

世間では「してもらうこと」だけを「サービス」と呼んでいるようですが、実際はあらゆるものが「サービス」であって、「あげる」と「もらう」は常に同時に起こっていると思うとラクに過ごせます。

例えばAさんが友人Bさんに手料理をふるまう場合。
AさんはBさんに手料理をサービスしたことになりますが、BさんがAさんの手料理を食べてあげるのもAさんに対してサービスをしていることになります。
与えるも受け取るも、同時にどちらもしているのだ、と考えてみてください。
手料理を振る舞う側は、料理を与えると同時に「手料理を与える喜びと充実感を受け取っている」し、
ご馳走になる側は、お料理を受け取ると同時に「手料理を与えるという喜びと充実感を相手に与えている」と言えるでしょう。

ピッチャーが投げたボールをキャッチャーが受けるとき、どちらか片方がもう片方に、一方的に何かをしてあげてるわけでも、もらっているわけでもありません。優劣もありません。
ボールを投げてあげたでもあり投げさせてもらったでもある。
ボールを受け止めてあげたでもあり受け止めさせてもらったでもあるのです。
それはどちらも対等で、投げると受けるの役割が違うだけ。
そして、ピッチャーとキャッチャーが両方そろわないとキャッチボールは成立しません。
料理の例でも同じで、二人そろっての楽しい食事が成立するには二人とも両方必要だというわけです。Aさんは好きでBさんに食事を作ってあげたのですから、BさんはAさんに「大切な人にサービスをしたことによる充実感や喜び」をプレゼントしてあげたわけです。
(自己価値が低い人にとっては、相手が「好き好んで」自分に手料理を作った、いう部分がどうしても信じられないようですが)
誰かに手料理を振る舞うなんて、とても素敵なひと時だと思います。なので、Bさんは、「ご馳走になった分、私もなにか恩返ししなきゃ」とか言って無理に片づけくらいさせろといって気を遣うより、ゆっくり二人の空間を味わって、心から喜びの態度を示すと良いのではないかと思います。片づけは相談して決めればよいのですから。

同じように、セックスも、会話も、すべて、互いにプレゼントを贈り合いっこする、良い機会です。両方に同時にプレゼントを贈り合いっこしているのです。それこそがパートナーシップだと思います。気持ちいいセックス、心地いい会話を、自分にも相手にもプレゼントできるように、研究と研鑽をつむとよいでしょう。それは相手のためというより、何よりも自分のため、二人のためです。セックスも会話も、「相手へのご奉仕」ではなく、相手へのプレゼントでもあると同時に、自分へのプレゼントでもあることを忘れてはいけません。

どちらかが頻繁に「手料理を作る側」を受け持つというような、役割が固定していること自体は、何ら問題ないと思います。一生ピッチャーで野球のたびに投げてばっかりの人もいれば、会話の時にリードするばかりの人もいる。双方が満足していて、飽きなければ、全く問題ないと思います。
ただ、ピッチャーが「いつも私が投げてるなぁ」と考えるのはフラットだけれど「いつも私が投げてあげてるなぁ」と考えるのは偏っています。投げてあげている側面もありますが、同時に「投げさせてもらっている」という側面も存在するのですから。どちらか片側だけにしかサービスが発生しない関係は、対等な関係ではなく「隷属関係」です。
宇宙には「貸し」も「借り」もありません。
与えたり与えられたりは、交互に切り替わって起こることではなくて、「鏡のこちらと向こうで、与えると受け取るが常に同時に起こっている」、という目線で物事を見てみてください。より、人との関係がフラットに、対等に感じられると思います。

自己価値が低い人は、「自分が相手にも素晴らしい贈り物をしている」という側面が見えないので、どうしても「してもらってばかりで申し訳ない」と、借金ばかりしている感覚、心の多重債務ともいえる偏った感じ方をしていることが多いようです。アファメーションなどをつかって、感覚を適正に戻す必要があるでしょう。それが自己価値を上げることにもつながりますので、ぜひお試しください。

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