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おはよ🍀
いつきです👋
今日は、痛み
痛みの理解。
これから引用する、「箱の中のカブトムシ」は、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが、「痛み」について言及する際に用いた思考実験です。
※痛みを何故かカブトムシに例えている🙄✨
--あるグループの人々が、それぞれ1つ「カブトムシ」の入った箱を持っています。
ただし、そのグループのすべての人が、自分の持っている箱だけしか覗けず、他人の箱の中身を覗き見ることは決してできません。
このような状況において、人々は自分の箱の中身を「カブトムシ」だと思っていますが、他の人が同じものを「カブトムシ」だと言っているのかわかりません。
そのため、このグループにおいてそれぞれの箱の中身が同じ「カブトムシ」かどうかは誰にもわかりません。
お互いの箱の中身は、全く違うものが入っているかもしれませんし、他人の箱は空っぽという可能性さえあります--
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あなたが「カブトムシ」だと思っているものは他人の「カブトムシ」とは全く異なるかもしれません。
「自分のカブトムシ」は、自分にしか知り得ないものなのです。
同じように、自分の考えていることや感情を言葉で表しても、それらは本質的には自分にしか知り得ないものです。
あなたが痛みを感じた時、同じような怪我や衝撃であったとしても、他の人にはあなたの痛みを同じようには知覚できません。
痛みの感じ方は人それぞれ異なり、言語化しても正しく伝えることは不可能なのです。
もっと言えば、相手に100%感情を伝えることはできず、自分の内面を言葉で表すことに意味はないのかもしれません。
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それぞれの箱の中身を共有できないため、「カブトムシ」という名前の対象が不明確だから、『ヘラクレスかもしれない』『日本のカブトムシかもしれない』など、自分と他人の箱の中身が確認できない以上、「カブトムシ」と言われても同じものを想像できているかどうか判断できない。
本質的な所ではそうなのかもしれないね。
でも、100%伝わらなくてもいいんだな。
相手に歩み寄ったり、寄り添ったり、理解しようとする事で救われる事もある。
痛みを伝えようとすること、サインを送ることは無意味ではない。
それに、僕らはきっとそれぞれ違った形の痛みを経験している。
その『違った痛み』でも、共有し、分かち合う事で楽になる事もある。
人の心は簡単ではなく、哲学では計れない。
そう思う今日この頃です😌
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ほなの👋👋👋