#20 日々、耳を傾ける。。~なぜ“言葉”に救われるのか?~
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秋のバラが、そろそろ咲く季節なのかな?
ウチのベランダのミニバラも咲きそう♪
楽しみです♪^^
↑コレ^^
おはようございます。
はるつぐ(はるコーチ)です。
一昨日、人の“多様性”について書きました。
“多様性”とは、
皆それぞれ “違っている” ということです。
皆 “違っている” というのは、
“個性”とか“性格”のこと、どころか、
同じモノを見ているようで、全く違うように見ている。
同じ経験をしても、違うように感じている。
同じ言葉を聞いても、違うように解釈している。
というレベルで違っている。
“同じ世界に住んでいるようで、違う世界に住んでいる”
くらいのレベル感で
“違っている”
ということを申し上げました。
そういうことがあるので、
人が協力しあって“成果”をあげる為にルールがある
と、申し上げました。
違う認識下で住んでいる人同士が協力しあうには、
“言葉”で認識を繋いでいくしかないんですね。。。
前置きが長くなってしまった。💦
今日は、
人がそれぞれ“違う認識”を持っているのであれば、
人が持っている“認識”はいくらでも変えられる。
ということを踏まえ、
「だから、言葉をかけられると救われるんだよ」
ということを話したいと思っています。
有名な話、
コップに半分の水が入っている時に、
「コップに半分しか水が残っていない」と思うのか
それとも、
「コップに半分も水が残っている」と思うのか
ご存じの通り、
“解釈”というのは、
いくらでも変えることが可能です。
仕事で失敗して、落ち込んでいる人に言葉をかける
「次があるじゃないか」
「失敗を教訓にすればいいんだよ」
うん。
視点が変わっている。
失敗して落ち込んでいる人は、
“失敗した事実”とか
“できなかった自分の今の能力”に
フォーカスしている。
そこに、
「次があるじゃないか」 → “次の仕事”(未来)にフォーカスしている
「失敗を教訓にすればいいんだよ」 → 失敗ではなく教訓なんだ
解釈は、いくらでも変えられる。
言葉は、解釈をする道具。
だから、違う視点を与える言葉に出会うと、
人は救われる。
乱暴に言うと、
人の悩みは、固定された解釈の上に成り立っている。
違う視点で見れば、全く違う風景が、そこにある。
違う言葉、違う感性。
今日も自分とは違う人の言葉に
耳を傾けたいと思う。