【生涯学習とまちおこし】教育学部小論文講座(第5回)

記事
学び

(1)はじめに


今回は、ちょっと毛色が変わった問題で、口休めといきたいものです。

生涯学習がテーマですが、この業務は学校の教員の仕事とは直接かかわらないものです。

とはいえ、教師は広く地域のことを考え、地域住民と連携しながら地域に向けて情報発信をしていかなければなりません。

実際、教師は副校長、校長のキャリアを獲得する際、市町村の教育委員会に出向することがあります。

そのときに、否が応でも地域の文化や歴史、地域が抱える課題と向き合い、真剣に考える機会が訪れます。

このようなわけで、生涯学習と地域文化の保持や「まちおこし」のテーマは教育学部入試小論文でもたまに出題されるので、この機会に学習しておくことをお勧めします。

(2)問題・「生涯学習施設が地域文化保持とまちおこしに果たす役割」東京学芸大学教育学部教育学科生涯学習2016年


以下の文章を読んで、後の問題に答えよ。

2006(平成18)年6月、日野宿発見隊結成

① 住民のための図書館であるために、まずは住民のことを知ろう。日々の生活の中で考えていること、悩んでいることをまずは知ろうと。そして地域住民を一軒一軒訪ね歩いた。また日頃より図書館を利用してくれる人に声をかけ誘ってみた。

② 夜、図書館閉館後、近所の住民が5人集まってくれた。発見隊の出発だった。まだ目的も方針も持たない会議に、ただ住民は図書館を信頼して集まってくれた。この基礎には有山崧(たかし)氏が日野市立図書館を創設して以来40年間の信頼関係があったのだ。そこで私は「この地域のこと、住民のことを教えてほしい」と持ちかけた。この時はまだ発見隊という名前もついていなかった。そこで出たのが、その後の活動の基本となる「町歩き会」だった。その準備会で私たちは住民から町の歴史などをレクチャーしてもらうこととなった。それは教科書には書かれていない話ばかりで、毎回初めて見る、聞く、知るの驚きの連続だった。この発見の連続の楽しさから、誰がつけたともなく「日野宿発見隊」と呼ぶようになった。「探険」ではなく、「発見」する喜びを表したのである。そして子どもたちにもこの町のことを知ってもらいたいと、「第一回日野宿子ども発見隊」が夏休みに取り組まれることとなった。子どもたちを集めるのには学校の協力を、地元の協力にはまずは商店会をと、取り組みの輪が急速に広がっていくのを感じ取った。そして初めての「町歩き会」。約50数名の大人と子どもが3班に分かれ、町中を歩き回った。発見するのは何でもよかった。子どもから見て不思議なもの、おもしろそうなもの、そして訪ねて行った家では大いに歓待された。家の中まであがったり、自慢の木をみせてもらったり、あちこちで自慢話に花が咲ぃた。この町は江戸時代から甲州街道の市場と制定され、以後400年以上変わらずずっと住み続けている人が多くいる町だ。そしてこの町の中心にある日野図書館という小さな分館もまた、どんなに住民に信頼され大切にされてきたかもよくわかった一日だった。

③ 「くらしの中に図書館を」は日野市立図書館開館以来掲げてきたスローガン。自分たちは本当に住民のくらしの中を知っていたのだろうか、このための何かをやってきたのだろうか。スローガン倒れではなかったのか。その答えがここに見つかるような気がした。

④ これ以後、発見隊は春・秋の「まち歩き会」を活動の基本におきながら、町中で取り組まれるようになった。各家が大事にしているお宝発見。これは今にも通じる生活の知恵であったり、先祖への思いであったりして、それらすべてが住民の生きてきた証であったし住民こそが主役であるという活動スタイルは住民の中に大いに歓迎され、信頼関係を築き、いろいろなお宝が図書館に持ち込まれるようになった。

⑤ 定例化された毎月のスタッフ会議は、文字通り社会教育の基礎といえる、住民自らが学び、自ら活動するスタイルをとっていった。夜図書館閉館後、三々五々下駄ばきあり、ちょっと赤ら顔あり、都心からの勤務を終えてくるもの、20代から70代のスタッフ20~30名が集まってくるのだ。自由な討論なのか、単なる自慢話なのか、決まったテーマも無く、脱線ばかりのとても楽しい場となった。日野図書館には会議室も無い。当初は予算も持っていない。ただ開架室に椅子を並べるだけのスタイルは今も同じ。違うのは、今はちょっぴり予算(2011年度日野市からの補助金20万円)を持っていることだけ。そして、わからないことがあればすぐにその場で資料を開き調べながらみんなで確認していく。それはこれまであまりこのような経験を持っていない商店主や町の人たちに新しい喜び、学ぶ喜びを作っていった。

地域資料の収集と保存そして公開ヘ

⑥ こうして集められた数々のお宝――地域資料――は職員によって丹念に装備され、新しい地域資料として保存されていった。中でも特筆すべきは写真資料であった、有山亮元町長(有山崧氏の父)が誘致した大工場、小西六写真工場(注)が1937(昭和12)年日野に進出する中で、多くの住民がここに働きに出たのである。それはまだカメラがあまり普及していない時代に、この町にたくさんの写真が残るきっかけを作っていた。人一の生活を知る貴重な資料としての写真を集めることがスタッフ会議で決まった。スタッフの中には大変重要な役割を担ってくれることになるプロのカメラマン井上氏がいたのである。最初『広報ひの』で写真の提供を呼び掛けてみたが、なかなか思うように集まらなかった。ここでも地域住民のパワーはすごかった。外に出て集めよう。地元スタッフと職員が組になって一軒一軒歩いた。写真というのはプライバシーの塊だ。個人に帰属するものなのに、と提供を渋っていた人たちに、これが大変貴重な資料であること、次の世代に伝えていくお宝であることを説明し借用をお願いした。よほどの信頼関係がなければ提供されなかったのではと思う。元住民と職員が組んではじめて出来たのである。

⑦ そしてこの写真資料は明治時代から昭和30年代のものが1、400枚を超える勢いで集まってきた〔、そして集まった写真一枚一枚を丁寧にパソコンに取り入れ。記録を作っていった。話された年代が正しいのか、ここはどの場所で、誰が映っているのか、どのようなことで撮ったのかを聞き取り調査を開始したのである。それは毎晩、土日も使って住民と炬燵(こたつ)を囲みながらの作業となった。ここで築いていった信頼関係こそが図書館と住民の壁を取り払っていった。

―中略―

⑧ 図書館にとって地域資料収集は十分に留意すべきものである。図書館がやらなければ誰がやるのだろうか。私たちが集めた資料は私たちが行かなければ消えていく存在だった。確かに日野市には別に郷土資料館もある。しかし住民に一番近く、住民に開放している図書館こそができる仕事だと思った。地域の歴史を子どもたちに伝えて、次世代に残していくのは市の固有の仕事であることと同時に、それが図書館の役目ではないだろうか。

⑨ 住民の意思はこうしたお宝を図書館内で保存するだけでは終わらなかった。自分たちの生きた証を、先祖が大切にしてきたものを次世代に伝えたい。多くの人に見てもらい評価されたいという思いがあることに気付かされた。本が書庫で眠っていては意味がないのと同じように、表に出すことが必要であった。一般公衆の利用のためには積極的な公開が必要なのである。

「まちかど写真館」とまちおこし

⑩ 集まった写真を当時撮影された場所と同じ場所にパネルにしてまちかどに展示することにした。誰もが歩きながら自由に見ることができるのである。今度は写真を提供してもらうだけではなく、展示してもらう家にも協力してもらう必要があった。また一軒一軒お願いして歩いた。そしてパネルにして見せる写真にするために、カメラマンの井上氏はボロボロやキズだらけの写真の修整を受け持ち、当時撮られた場所の今の写真を撮り、今昔の変化がわかるようにしてくれた。この活動は多くの住民の力を借りることとなったのである。

⑪ そして始まった「まちかど写真館」は大変話題を呼んだ。町中の話題になり、新聞やテレビが取材に来た。図書館の仕事がまちおこしへとつながっていったのだ。道行く人の足が写真パネルの前で止まり、これは誰それだといった話があちこちで始まっていった。

⑫ 当初、図書館の仕事はまちおこしや観光とは全く縁がないものと思っていた。いやむしろ図書館の仕事とは、そんなお金目当てものとは違って、文化の香り高い仕事なのだという思いがどこかにあったような気がする。その考えは全く粉砕された。テレビ出演の時、地元の70過ぎの方が、ポツンともらした言葉「生きていて良かった」と。これまで仕事をしてきて最高のほめ言葉をいただいた。

⑬ 住民たちは自分たちの町の誇りを取り戻し、どんどん元気になっていくのが明らかに感じられた。町の中では古い家を壊さず、利用してギャラリーを始める人。蕎麦屋を開業する人が出てきた。「町が元気でなければ、図書館はだめになる」と前川恒雄初代館長から教えられてきたことが、こんな形で実行できたのだ。町の人は「図書館がこの町を変えた」と言ってくれるようになった。このことは大きな意味をもつ。単に本を借りるだけの図書館から、住民と一緒に作っていく図書館に変化してきたのではないだろうか。住民同士の絆や、信頼関係が、図書館を軸にして築いていくことができると確信した。社会教育の本質がここにあると感じられた。

⑭ 日野市でもこの活動を主要事業と位置付け、補助金を出し支援してくれた。これは大きな力となって、前へ進ませてくれた。行政改革の中で予算が削られ、どんどん事業が縮小されていくなかで、あり得ない待遇だった。

⑮ この「まちかど写真館」は小学校の授業でも取り入れられ、町を歩いての社会科見学であったり、出前授業で学校に職員が呼ばれたりするようになった。日野一中では毎年、三先生全クラスの公開授業を依頼され、10名の発見隊員を派遣し、地域の歴史や人々の暮らしの様子を撮った映像を見せながら行っている。また老人施設からも依頼され、昔の写真を映像で紹介しに行った。ここでは逆にそこはこうだったよと、お年寄りから教えられて帰ってきたりもした。頭のリハビリになるそうだ。写真を見ながらの音を語り合う会では、どんどん脱線しながらも住民が思い出話に花を咲かせた。この思い出話もまた貴重な記録として録音し、テープ起こしをして記録に残していった。

⑯ そして国からの補助金を利用して、『写真集まちかど写真館inひの』を2009(平成21、年3月に刊行することができた。また2010(平成22)年度、地域ぐるみの子ども読書活動推進事業として国立青少年教育振興機構より委託を受けることができ、子どもたちに向けて、町の歴史や昔話を絵本にした『ひのっ子日野宿発見』を2011(平成23)年1月刊行することができた。これは地元小学校に副読本として配布され活用されることとなった。これらはすべて国や団体からの補助金制度を利用してきた。この活動は地域の学校・PTA・商店会の結びつきをより一層深めることになった。私たちは図書館の仕事が保存だけではなく、新たに作り出し、残していくことも出来ることを知り、喜びに満ちあふれた仕事をすることができた。

⑰ ほかにも発見隊はスタッフ会議の中で出たことを一つ一つ実現してきた。江戸時代、この町の中心を通る甲州街道沿いの家々には、表札であるところの屋号看板が掛かっていた。人々は、お互いを名前よりも屋号で呼び合っていたのだ。屋号とは豆腐屋などの商いの商標であったり、角にあるから角屋と言ったりするその家の愛称のようなものである。その屋号の看板をみんなで復活しようと、江戸文字で書いたり、彫ったりする活動にも取り組んできた。また日野用水の清掃をしたり、あるいは東日本大震災支援の募金活動にもいち早く駅頭で開始したりと多様な取り組みがなされてきた。毎年開催されるようになった日野宿夏祭りは、2011(平成23)年8月で5回目となり、子どもから大人がふれあうお祭りとして地元に根付いてきた。これもまた単なるお祭りではなく、この間の発見されたお宝の発表であったり、復活だったりするのだ。地元の大昌寺というお寺では江戸時代、時計が無かった時代に、日野宿の人がお金を出し合って時の鐘をついてもらっていたという歴史がある。これも発見隊の学習の中で学んだことなのだが、これを子どもたちに鐘をついて体験してもらったり、お年寄りから昔遊びを教えてもらったりするお祭りとした。夜には、ビルの壁面に町の昔の写真をプロジェクターで大写しにして、語り合う楽しいひとときとなっている。多くの町の人が楽しみにしているお祭りだ。

⑱ これまでの活動の中でも一番大きなイベントが、2010(平成22)年1月に取り組まれた「日野駅開業120周年」事業だった。これは単に駅舎ができたということではなく、町の発展とともにあった日野駅を町のみんなで祝おうと、JRや日野市に呼びかけて実現したものである。当日は講演会や写真展などを多彩に開催したが、なんと4千人もの客が参加して町があふれるほどになった。行政やJRを動かすことができたことが、大きな力となって相乗効果をもたらすという現象を実感した事業でもあった。図書館がまちおこしの役にたつことができたのだった。そしてその要に図書館がいるということで、市と住民を結ぶ役目を果たすことができるという確信を得た。
(出典)渡辺生子「市民の図書館を実践して:日野宿発見隊報告」『図書館界』63巻5号、2012年1月、pp。375-378より。なお、問題作成の都合上、一部を改変した。
(注)現在のコニカミノルタ株式会社

〔問題〕 

上の文章は東京都日野市立図書館の「日野宿発見隊」の実践報告である。この文章を読み、地域づくりの活動において、地域の中の文化遺産を再発見する活動が持つ意味、生涯学習施設が果たす役割を1200字以内(句読点を含む)で論述せよ。

土方歳三.png

(3)考え方


今回の問題は、みなさんがお住まいの市町村を題材にして書くようにしてください。

事前の下調べもきちんとしておきましょう。

地域の文化財、地域の生涯学習施設(図書館、郷土資料館、博物館、美術館、コンサートホールなど)の活動と地域の文化や歴史、教育や福祉とのかかわりを調べて書くことをお勧めします。

これは、面接対策にもなります。

「あなたのお住まいの地域の課題は何ですか?」と面接で聞かれて、答えに窮したという話を聞きます。

ここでは「解説」と書きましたが、小論文の書き方の話は割愛して、参考資料で取り上げた東京都日野市の話をエッセー調に書いていきたいと思います。

日野市は東京都の西部、多摩地区にあり、JR中央線の日野の駅があります。

参考資料にも紹介されているように、日野は江戸時代、甲州街道の宿場町で多摩川を渡る「日野の渡し」が置かれたところでもあり、往来する旅人も多く、大変に栄えた町です。

日野宿本陣も保存されていて、現在は日野市立新選組のふるさと歴史館分館 『日野宿本陣』として、館内では資料も閲覧できるようになっています。

運がよければボランティアの地元のガイドさんの案内も聞けるので、歴史ファンだけでなく、誰もが楽しいひとときを過ごすことができます。

私が訪れたときには、新選組隊士で「人斬り鍬次郎」と恐れられ、伊東甲子太郎を暗殺した大石鍬次郎の面白い話を聞くことができました。

日野とえいば、幕末、京都を舞台に尊王攘夷の志士たちとやりあった新選組副長の土方歳三の生誕の地としても有名です。

日野は土方のほかに新選組六番隊組長井上源三郎が生まれたところでもあり、土方と井上の子孫の方が住まれていて、それぞれ資料館があります。

日野市では、毎年5月に「日野新選組祭り」が開催され、全国から多くの新選組ファン、というか土方歳三ファンが訪れます。

全国から募集で駆け付けたファンや地元の有志の方たちが新選組隊士の衣装をまとって町を練り歩くパレードがこのお祭りのハイライトです。

私は見学した2019年の「日野新選組祭り」のパレードを見学したことがあります。

小論文の資料にあるような、町ぐるみの盛り上がりを肌で感じることができました。

これもひとえに日野市図書館の方々のご尽力の賜物だと感じ入る次第です。

解答例はオンライン授業を受講された希望者の方に配布しております。









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