「昭和のほどよい暮らし!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓🏊⛳😎😍

記事
コラム
💎”モノと人を大事にする暮らし”
不況で元気を失いがちな中、振り返ればそんなに遠くない過去に
今よりずっと物は少なく経済規模だって小さかったけど
活力のあった時代があります。
便利な機械の登場に恩恵をこうむりつつもそれに頼り過ぎないで
昔からの知恵を活かし、人の手でできることはする。
輸入品を含めおしゃれなものや素敵なものが次々と現れ
それなりに楽しみを享受しながら使い捨てには走らない。
人と物を大事にする暮らし。
モノはあっても贅沢でなく、ほどほど便利で生活快適。
携帯もパソコンもないかわり、人と人のつながりがやさしく温かい。
そんな「ほどよい」暮らしがあった時代。
日々のほどよい生活の工夫の中に昭和30、40年にその原点があると!


・昭和二十年代の建物、三十年代の道具
・頑張らない掃除
・洋食ふうへの憧れ
・野菜中心の食事とフードプロセッサー
・おばあちゃんの風邪退治
・ほの甘くて温か、葛湯の幸せ
・ほどのよいカーテン探し
・ピンクをめぐる冒険
・きれいに泳いでリラックス
・体に合う服、合わせる服
・セミオーダーという選択
・ラッパにひかれて豆腐屋さん
・屋台のわらび餅やさん
・リヤカーの焼き芋屋さん
・リヤカーで生湯葉を
・温泉の恵み、いつまでも
・レンタサイクルで半日旅
・町の身近なお医者さん
・親知らずを抜く
・痛みを味わい、気づくこと
・音がいろいろ多すぎる(小さくても役に立つもの)
・冷房と上手に付き合う


💎ミシンと戦争の深い関係!
博物館の台所の床は、上げ板になっていて
ぬか漬けの樽を下に置ける。
博物館の人に聞くと、同じ床下収納でもマンションのそれは
周囲をコンクリートで覆われ風通しが悪く、熱がこもりやすい。
それは昔の台所は、床下からも隙間風で冷えるという事である。
北側にある寒く暗い台所は、家事労働の大変さや
女性の地位の低さを象徴するようでもあった。
家を建てた男性個々人が女性を下に見ていたというのではなく
社会文化全体がそうだったのです。
博物館となっている家でも、初めは台所の外の土間にある
井戸とかまどで煮炊きをしていたという。
それに比べると、明るい所で調理できる今の台所で良かったと思う。
昭和三十年代の暮らしにはひかれるけれど
何でもその頃に戻りたいわけではない。
手作りの暮らしのようでいて、実は機械によるところが多い。
精米機、炊飯器、ぬか漬けを保存し炊き立てのご飯を小分けににして
冷凍する冷蔵庫。電化の恩恵は大いに受けている。
博物館の縁側のミシン。
洋裁の内職は、当時の女性にとって数少ない収入源。
社会に就ける職が少なく、家事労働の多さから家をなかなか空けられなかった女性が、家にいてできる。
戦争で夫を亡くした人、復員しても仕事がみつからない夫を持つ人には、
生活の支えにもなった。
戦争とミシンの普及は、本当に深く結びついている。
戦争で衣類は、底をついていたし、勤労動員や空襲への備えで
働きやすい服を着ざるを得なかった女性は、戦争が終わっても和服には
戻りにくい。
そこへアメリカ文化が入ってきて、洋装化がいっきに進んだと。
昭和三十年代を語るには、戦争抜きにはできないようである。
戦争はとうに終わっていても、生活を作っていく中心世代は、
戦争の経験者だったのだ。
ミシンの話で言えば、自分で服を作った。
入学式まで間のある春、綿のコール天でスカートを
綿ブロード地でワンピースを縫った。
受験も終わって暇だったし、これからは制服がなくなるから着るものがいるなと。
制服とジャージで済んでいた高校生の間は、私服をあまり買ったことがなく
既製品の事情にうとくもあった。
進学後、街を歩くようになったら、既製品があまりに出回っているので
拍子抜けした。
あのとき作る意欲を失ったと同時に、体に合う服を着る心地良さを
放棄したともいえる。


💎洗濯は大変だった!
懐かしさもあって当時のものがよく見えてしまうが
今のようになってよかったと思うものは、「洗濯」
昔は重労働で、しゃがみこんで力をかけて洗わないといけなかったし
絞るのも大変だったと。
井戸のそばには、盥(たらい)が二つ置いてある。
洗濯が大変だったのは、私も母を見ていて覚えがあります。
子どもの頃、家ですでに洗濯機は使ったいたが、脱水機がなかったのか
脱水機にかけられないものがあったのか?
シーツは、両端を姉とわたしで持ち、二人がかりで捩(よじ)った。
洗濯乾燥機!
乾燥はすべて機械でするのではなく、原則として日に干している。
夏は、その方が断然早いし、電気代も節約できる。
電気代の節約は、すなわち資源の節約でもある。
加えて、綿の服は、乾燥機だと縮み方が激しい感じがする。
肌着やタオルは、気にならないが、シャツブラウスなどは
ハンガーに吊るして干す方がいい。
でも、日に干すので、完全に縮まないという事はない。
雨続きの時は、乾燥機は、本当にありがたい。
必ず乾くので肌着やタオルの数が少なくて済む。
手作業、自然をすべて良しとするのではなく、機械と使いわけていきたい。
昭和三十年代の暮らしを見直す理由は、
「家電製品も使うけれど無制限には電化しない。
使い捨てをしないで、ものは大事に使う。
大事に使うとは、用途に合わせて使うという事です。
とにかく、何でも機械や工業製品に頼るのではなく
自分の手と身体を使う事が基本という生活です。」
ほどの良さを探るひとつのヒントがそこにあるのです。


💎「音」がいろいろ多すぎる!
昭和の暮らしを懐かしんだりその知恵に学びたいと思ったりする一方
あの生活に戻るのはつらいと感じてしまうのは、エアコン以外では
それが実に大きい。
私は、テレビの音がとても気になる。
家にいて、まったくつけないわけではない。
見たいと思う番組があればつける。
だが長時間は疲れる。
ニュースの音を消して字幕だけ目で追うことも多い。
見るつもりがなくてただつけていることはない。
家の中は静かでありたい。
音楽やラジオをかけながら何かをする習慣は昔からなかった。
今は、銀行でも病院でも人が待つところには、必ずと言えるほどテレビがある。「見ている人、いるのだろうか?」
喫茶店に曲が流れているのは、折込み済みだが、入ってみて予想外の
ボリュームだと後悔する。
隣のテーブルで盛んにしゃべっていても、運がわるいなと。
そう、テレビだけではなく人の話し声も気になるのだ。
列車の中でトイレに立つふりをして、ひそかに席を移ることもある。
わがままで神経質であるとは思う。
たまたま一人暮らしで、同一空間で話し声や自分でつけたのではない
テレビの音がすることはない。が社会生活ではそれが当たり前。
順応するか、耐え難ければその場を離れるしかないと。
あるとき、防音のイヤーマフの話が出てきた。
この防音のイヤーマフとは、どんなものだろう!
検索してみると、それにたどり着く前に出会ったのは、音が辛いという悩みの
数々だ。店などでかかっているテレビの音が苦痛、女性タレントの声が耳に着く、喫茶店でも注文の品を飲むのもそこそこに席を立つことがあるなどの
胸の内を語られている。
自分だけではない、同じ悩みを抱えている人がこんなにいる。
そう知ったことは、悩みそのものは変わらなくともホッとするものだった。
聴覚そのものの問題では必ずしもなく、気になる音とそうでない音とが
人それぞれにあるようだ。
たしかにそうで私は、よその家から聞こえる音に気になる音とそうでない音がある。集合住宅なので、工事音が天井や壁を通して伝わってくるが
この音は、気になる。しかし、これは仕方がないと割り切れる音なのです。
工事期限が決まっているからです。耐えられない時はその場を離れるしかありません。自分も夜中に洗濯機を回したり、片付け物をしたりで
ご近所に我慢してもらっているという気持ちもある。
ご近所との間では、「お互い様」のありかたが音についてもできている。
そう感じられたこともまた、私を少し楽にした。
電気店に行き、防音マフを試着した。
圧迫感もさることながら重量が気になった。
情報も、物もネットで得る方が今の私には多いのだが
店に足を運んでこそわかることがある。
防音イヤーマフは、残念ながら買うに至らなかったが、私が店から持ち帰ったのはその教訓だった。
とりあえず同じ売り場にあった耳栓を買って帰った。
今どきは、イヤープラグと呼ぶようだ!
商品説明には、ノイズレベルを33デシベル下げるとあり
デシベル数でいうと試着した防音イヤーマフ以上の性能を持つ優れモノ。
一袋に3組入っていて価格は600円ほど。
色は、オレンジと黄色があり、オレンジにした。
耳栓をした感覚は、密閉感がなく、音が向こうの方でしている感がある。
プールに潜った時に似ている。
近くでする音は、耳の奥で脈がうつ響き。
ボリュームは、半分くらいに下がる。
逆に言うと半分くらいは、耳栓をしても入ってくるわけだが、
それでいいのかも!!!
耳は、外界とつながる回路!
完全に断ち切らなくても、あるいは断ち切ってしまうより、少し行き来のあるくらいが「ほどよい」のだ!!
出かける時は、バッグに入れる。
いざとなれば自分で耳に入る音を調節できる方法を「持っている」というだけで、不安がなくなる。
携帯性は、防音イヤーマフを上回る。
服のポケットに十分収まる。
簡素な道具がいい。そのことを実感する。
オレンジ色は、肌の色に近く意外と目立たないのだ。
耳栓のそうした特徴のおかげで、思わぬ使い途が開けた。
介護の場面だ。
ふだん一人暮らしをしている私だが週末は、父と二人で過ごす。
90近い父の家に泊まり込む。
父は起きている間ほとんど、のみならず寝る時もテレビをつけている。
眠った後で、リモコンを握りしめている指をそっとはずして私が消すと
半睡半覚でまたつける。
私とは逆で、何らかの音のしている方が落ち着くらしい。
顔と顔をあわせて会話している間は、つけなくてもいられるが
炊事、掃除、洗濯などで目の前から私がいなくなるや、リモコンに手を伸ばす。
せまいマンションなので、テレビの音は背を向けていても耳に入る。
父の着替えを手伝ってシャツの袖に腕を通して下へ引っ張るだけにしたところで、吹きこぼれそうな鍋のそばへ走り火を弱めたり味付けをしたりして
振り返ると、父は、シャツを着かけたままの姿。
テレビに気をとられているのだ。
ついている番組が、父がおよそ見るはずがないものだと、つい、
「見てる?」ととがった声で聴きそうになるけど、こらえる。
同時にいろんな気持ちを呑み込む。
いつから、こういう癖がついたのだろう。
昔は、父も、テレビがつけっぱなしなのは、嫌いな人だったのに。
今は、付き添いなしには外出できず、他に楽しみもないのだ、
家の中でくらい、好きなようにしてもらったらいいではないか。
でもこう常にテレビの音がしていては、私はここで領収書の整理ひとつ
できない、週末だってしなければならない仕事はたくさんあるのだ。
できないのは、自分の順応する努力が足りない。
そもそもしゅうまつくらい親の為に割いて孝行を少しはすべき。
罰は当たらないはず。
子どもの頃は、さんざん世話を受け育ててもらったのだ。
今介護する側になって本当ならこの時間にあれもこれもできるのにと考えてしまうのは恩知らずだ、
などなどのさまざまな思いが胸の中でぶつかり合う。
「耳栓」は、私のうちのそうした不協和音を少なくやわらげてくれた。
テレビの音を耳障りと感じながら家事をしていた私は、
表情や声や身の苛立ちを抑えた固さがあっただろう。
そして介護をされる側は、たとえ言葉はよく理解できなくても
そうしたボディーランゲージは驚くほどよく伝わってしまうのだ。
認知症の人の状態は介護者の感情を鏡のように反映するといわれる。
父の前で耳栓をするのは、相手を拒んでいるようではじめ抵抗があった。
しかし、そこが耳栓の良さ。
父には見えないように着けることができる。
完全に遮音できないのもこうなるとよかった。
テレビの音をボリュームダウンさせる一方
父の声や動静はつかむことができる。
コミュニケーションの回路が保たれている。
耳栓をしてから私は、前より父の家で心が平らかで穏やかでいられるようになった。
それは必ず父の状態に影響を及ぼす。
耳栓によって二人は、一つの家に我慢しないで共存できる関係に近づくことができた。
自分に合う防音イヤーマフが見つかるまでのつなぎのつもりでいた
「耳栓」が、私には、”ほどよい”道具になったのです。


💎おばあちゃんの風邪退治!
・基本は手洗い
・首、手首、足首の保温
・昔からあるおじいちゃんの股引(ももひき)をはく
ちなみに女性は、すでにレギンスをはいて解消。
これ、股引の継承。

💎媚びを売らぬ駄菓子屋(おばあちゃん)
昔、行きつけの駄菓子屋があった。
正式名称はわからないが、「オバコンの店」と呼ばれていた。
はやっていた子供向けテレビ番組「ロボコン」から
おばあちゃんがやっている店という理由で「オバコン」なのかもしれないが
真相は謎だ。
オバコンは、不愛想だった。
子どもに媚びを売るようなことは一切なかったが
なぜか私は、オバコンが好きで50円や、時には100円玉を握りしめ
「世間話してくる!」と足しげく通った。
行けば話し込み、トイレを借り、一度だけ昼ごはんも作ってもらった。
「オバコンとご飯を食べた」と言うたび、大人たちは驚いた。
驚くというのは、おそらく近所では、親切なばあさんということでは
通っていなかったのだろう。
店は木造で薄暗く狭かった。
オバコンは、一人暮らしで奥と2階が住居スペースだった。
私のお気に入りは、串にささったカステラと串タラ。
そして憧れは、「1000年女王」というアニメの巨大なメンコだったが
これは、くじを引かねばならず全く当たらない。
するとある時、オバコンがそのメンコをくれたのだ。
幼稚園の卒園の頃だ。
小学生になった私は、学校の通り道でなかったこともあり、
自然とオバコンの店から足が遠のいた。
ある日同じクラスの男の子とオバコンの店の話になった時
「あのババア、すげっちゃろう」とその子が言った。
オバコンに、ケチという印象がまったくなかった私は、
キョトンとしてしまった。
自分がどうやらオバコンから特別扱いされていたらしいことを
初めて知った。それほどクールなばあさんだった。
そんな人がどうして売り物をくれたのか。
オバコンは知っていたのだ。
小学校に上がったら私がもうここに通う事はないだろうという事を。
残酷なほど子供は、かつての世界をためらいなく飛び出していく。
オバコンが、子供に媚びを売らなかったのは、肩入れをすると
いつか寂しい思いをすると知ってのことだったかもしれない。
そして、私が中学生の時、オバコンは、2階から足を滑らせ入院して
やがて帰らぬ人となった。
私は、オバコンの店に行かなくなったことを後悔した。
甘いカステラとしょっぱい串タラを交互に食べる至福。
今、同じものを食べても、あの時のおいしさには勝てないだろう。
子どもを雑に扱うオバコンは、誰よりも子供が好きなシャイなばあさんだった。
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