神さまに聞いた、幸せになるために大切なこと、その2。
『つい自分を置き去りにしてしまう』
自分の感覚をしっかりと味わいながら生きていますか?
もし私たちの感覚が全く機能していなければ、無感覚であれば。
いくら幸福感が与えられても、愛が与えられても、幸せと感じることができません。
私の願いはただ一つ。
幸せ、と感じることです。
長く長く、自分を犠牲にしたことで、愛を自分自身ではなく他人にゆだねたことで。
つらく苦しいことが当たり前だった私は、感覚が全く分からなくなってしまいました。
誰かへの愛している、は口先だけ。
いつも自分を犠牲にして、傷つけられても笑っていられる。
朝起きたら、悪いことが起きる予感がする。
仮に愛する人と出会っても、すぐに喪失してしまう気がする。
一見するとお金もあり、いい車に乗り、誰もがうらやむ家に住んでいる。
ステキな夫と子供にも恵まれ、専業主婦で誰から見ても幸せなのに。
その人が天国を生きているのか、地獄を生きているのか。
それは見た目では全く分からないのです。
その人の心が何を感じているのかなのです。
朝、目覚めた時、最愛の自分自身への至福の愛が止まらないほどわいてくる。
自分自身が最も素晴らしい存在であると確信があり、自分に誇りをもって1日をスタートさせる。
口に入れるもののおいしさ、流れる時間の豊かさ、今あるものへの感謝。
今自分を見守ってくれている、すべての存在に対する愛。
例えば嫌いな人間関係の中。取引先との接待の会食で食べたものの味は、どれほど豪華な料亭であっても、私はわからない。
ゆっくりと休暇を取り、幸せをかみしめながら。
ご飯をしっかりと炊いておにぎりを作って『今日はしっかり味わって食べてみるか』と思ったとき。
お米の甘さと暖かさとふわふわとした感覚に包まれてびっくりした。
『うっっっまい!!』と思わず口から洩れた。
これは誰もが言うきれいごとではなく、自分自身が体感したことだからこそわかるのです。
つまり大切なのは、感覚。
研ぎ澄まされた感覚。
私たちはつい、忙しい毎日の中で、苦しみを抱えがちな日常のなかで自分自身の感覚を置き去りにしてしまいます。
朝、バタバタして味わうことなく食事をとったり、カーテンを閉め切ったまま働いて今日の天気もわからなかったり。考え事をしながら音楽を聴いたり、運転をしたり。。。
思考を止めずに感じることをおざなりにしていませんか。
つい自分を置き去りにしていませんか。
自分の感覚にいかに集中できるか。
生きるとは、絶えず思考し続けることではなく、絶えず感じ続けること。
生きている、その感覚を味わうこと。
自分を愛するとは、自分の幸せの感覚を感じ続けることです。
いますぐにできます。
感じてみてください。
幸せや喜びがこみ上げてきますか?
不快なものはできる限り取り払いましょう
正確に感じることの大切さ。思考で考えて決めないで。
幸せの感覚を味わいながら生きるためには、自分の苦しみを取り除くことも大切です。解放しましょう。