「拒食症と過食症」そんなどうしようもない生き方もある。

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コラム
今年、何でも白か黒かハッキリさせたい人と仕事をすることがあり、そういえばという感じで思い出したのですが、
私は若い頃、何でも白黒ハッキリさせたい、グレーなんてあり得ない人間でした。

好きなの?嫌いなの?
やるの?やらないの?
食べるの?食べないの?

その白黒ハッキリさせたい
食べない極みが「拒食症」で
食べる極みが「過食症」でした。

白と黒という端から端の二分割しかない極端な思考は極端な行動を生むものだと思うような実体験でした。

拒食症当時、
心身ともに受け入れるのは1日500キロカロリー程度の食事『全粒粉パン、ちくわ、チーズ、インゲン』で、
毎日毎日自分が良しとしたこれら食材を食べ続ける拒食をしていました。

過食症当時、
このチョコレート1つだけと口に入れた途端に、ブチッと何かが外れると同時にスイッチオン。
これまで禁食としていたスイーツやパンを口に放り込み、お腹がパンパンになるまでやめられない、やめたいのならお腹をパンパンにするしか方法がない過食をしていました。

この二分割の端っこに在る時はエネルギーを消耗するので生きていきにくくなると感じます。

極端な寒さも極端な暑さも身体に負担を強いるように、

植物に水が与えられないと干からび、
植物に水を与えすぎると腐るように、

貧困が過ぎれば飢餓となり、
栄養が過ぎれば肥満になるように、

極端な現象は短期間であればなんとかなったとしても、それなりの時間それを守っていくことは、

「エネルギーを消耗させる」か、
「エネルギーを蓄積させた後に蓄積が過ぎた末に消耗する」か、

パターンとして違いがあるだけで、結果的には「エネルギーを消耗させることに違いはない」と思っています。

私はこの二分割の端っこである拒食症だった時に、痩せることにとてつもないエネルギーを費やしていた自覚があります。

考えは痩せることに始まり、痩せることに帰結するといった感じでした。
四六時中痩せることを考えていましたし、
当時の私の世界は自分しか登場人物はいないというくらい自分に没頭していました。

あんなに自分勝手に自分のことだけで完成されていた世界を経験することは、普通に暮らしてきた人はそうないことだと思います。

引きこもりの人たちも、きっとこんな感じなのかなと想像しますが、引きこもってしまう人は葛藤があるかもしれませんね。

引きこもってはいけない、社会参加しないといけないと理解していても、社会に出られない自分に激しい葛藤を抱くと思います。

拒食症は「太ってはいけない痩せなくてはいけない」という「自分の中の強迫観念のような信念」があるので、恐らく社会とのズレみたいな葛藤は生まれないので、
拒食症に在る時は痩せなければいけないことに一喜一憂し命を削るけれども、
一直線に痩せることへとエネルギーを消耗できるので、ある意味居心地は良いのだろうと思います。

普通や標準から逸脱した二分割の端っこは、エネルギーを物凄く消耗させますが、
「そんな生き方もある」ということで、
私は「拒食症や過食症になってしまったのなら仕方ないじゃないか」というスタンスです。
拒食症や過食症にならない予防対策は考えていません。

もちろん、拒食症で死んでしまう人は実際いるし、拒食が原因で不妊症になる人もいます。
必須な経験なんかでは全くもってないのですが、

「現代病のような摂食障害」を阻止しようとしても、それは難しいと思っています。

個性や多様性と言いつつも、やっぱり量産が圧倒的多数で優位、自分と他者を比べるツールが手元にあって、衛生的な環境で物質面でも豊かで、精神的に鍛えられる場が少なくなっているこの日本で、
「未熟であるが故、摂食障害になるのは仕方がない」と思っています。

摂食障害になる時は「アイデンティティに迷っている時期」だと感じます。

「己という存在は?」
この大きな壁にぶち当たっているのです。

アイデンティティを確立する時は、中途半端さに揺れ動く時です。
フラフラと本当の私はどこにいるのか探します。

本当の私はこれ?
それとも昨日の私?
違う◯◯ちゃんと一緒にいるときの私?

「本当の私はどの私も本当の私」なのですが、
「限りなく私である私で在りたい」
「私がこれが本当の私だと心の底から納得できる私で在りたい」
そう思っているのが摂食障害に在る時です。

考え方も、
私に拘るあまり、
「私」か「私じゃない」か、
白か黒か二分割に偏りが出てくるのが摂食障害の頃だと思っています。
(思春期を過ぎてもアイデンティティに迷い摂食障害に陥る人もいます。)

現在の日本において、いつ誰がなってもおかしくないのが摂食障害です(特に女性)。

不安定ながらも平和な時代でも、
のらりくらり生きていられない人がアイデンティティを確立するために必死でエネルギーを消耗させて、自虐的に自分を追い込んで自分を知っていく。

「アイデンティティを確立するための手段が拒食や過食だった」
そんなどうしようもない生き方もあるということです。

二分割の端っこは、拒食症に限らずどんなことでも孤独な世界なのですが、
そうは言っても、断絶され切り離されているわけではありません。
グラデーションでつながっているようなものです。

拒食症のような飢餓状態が真っ白であれば、
高度肥満が真っ黒という感じで、
その真ん中にいわゆる標準や普通とされるグレーがあるのでしょう。

エネルギーを消耗しすぎて病院行きになれば、自分だけの真っ白い世界から強制的に脱することで、
真っ白の足元が、ほんの少しだけグレーを帯びた足元に変わるかもしれません。

己という存在は、
「限りある命を与えられた」地球上の生物であると理解できれば、
真っ白い世界に戻るようなことはないような気がしています。



生きていれば、社会生活を送っていれば、
白か黒かという場面は短期間でしか有効性を認めないように感じます。

買うか?買わないか?
合格か?不合格か?
始めるか?終わらせるか?

白か黒か決定した次の瞬間には、
ローンの支払いが生じたり、また購入先を探し回ったり、
黒から白か迷いながら将来に向けて歩くことは変わらず、
人間の基本的な定位置はグレーであるのだと感じます。

拒食症になってしまったら、もうそこが二分割の端っことして行き止まりなわけですから、気が済むまで思う存分滞在して、定位置に戻るチャンスを待つしかありません。

行き止まりの先へ行ってしまえば色はないのですから、引き戻してもらえる人が周囲にいることはとても重要になります。

人間の定位置は「人と人とが交わる社会」です。
白の人黒の人が混ざり合うことで、どちらかに偏ることなくグレーを作り上げているのが社会です。

人は1人では生きていけないと言われることそのままに、
私たちは思考も行動も、常に様々混ざり合うグラデーションの中を生きているのでしょう。


今年最後のブログになりました。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

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