半ば諦めて切り捨てたものとセットでいこう

記事
コラム

私の髪の毛は湿度メーターです。

湿度をしっかり感知して、
湿度具合でウェーブの強弱が変化して、
この梅雨時期には「パーマかけたの?」と言われるくらいに仕上がります。

湿度によっては、
私の髪質と美容師さんの腕で、
ウェーブ具合が、それなりにいい感じに仕上がる時もあります。

持っているものを活かすって、こういうことを言うんだなとシンプルに思います。

こうシンプルに思えるようになるまでに、
あちこち自由な方向を指す毛先を相手に、
何度縮毛矯正しようと思ったことか。

今だって、
毎朝鏡の前で、職場のトイレの鏡の前で、帰宅して手洗い場の洗面台の鏡の前で、
縮毛矯正しようかなと思うこともありますが、

クルクルふわふわでいいね
遊べる特な髪質だよね
そう言ってくれる人もいるし、
美容師さんも縮毛矯正なんて勿体ないと言ってくれるから、

やっぱり私の持ち味としていいんだなと感じています。

半分は、自分のクセ毛に対する降参や諦めのようにも感じるけど、

「何かを許容し受け入れる」ときって、
「何かを捨てる諦めることとセット」だと感じるので、

私の場合、
クセ毛をストレートにすることを諦めて
自分のクセ毛を愛らしいなと受け入れていこうと思ったわけです。

何かを捨てる諦めるって、
今までの自分の一部を切り捨てていくことに近いので(例えばストレートの髪質というそれまでの自分の理想)、

切り捨て切り捨てばかりをしていても、
自分がポッカリなくなってしまうと感じています。


立派な樹木に成長させるためには、
新芽の発生を促して花つきをよくし、病害虫の予防をする剪定が欠かせませんが、
計算なく際限なく剪定して、バサバサと枝を切っていたら、
今度は必要な太陽の陽を浴びることができずに、樹木の成長が滞ります。

自分が成長できる構成バランスを維持できるように、
何かを切り捨てたら、時間がかかっても、新たに何かを受け入れることは必要だと感じています。
これも1つの新陳代謝ですね。


私は長年慣れ親しんだ今までの自分の一部である、摂食障害を切り捨てることができました。

数年前、上腹部の良性腫瘍の発見によって、
半分「あ、このままじゃダメなんだ」と諦めに近いような気持ちで、切り捨てることが叶いました。

今までずっと

食べて吐いていたことで維持していた体型は、
自信のない自分を社会から守る最大のバリアで、

食べて吐いていたことは、
自分の最大の苦痛であるも、最大の癒やしで、

食べて吐いていたことは、
自分の最大の敵であったけど、
同時にすぐに逃げ込むことができる、最大に頼れる存在でした。

痩せていない自分でもいい
食べてしまう自分でもいい

いわゆる等身大の自分やそのままの自分など、
そういった「自然体」「ありのまま」であることを受け入れよう
という意識にはなれなかったのですが、

「食べて吐くことに頼らない自分」を受け入れようと思うようになりました。


「自然体でいい」「ありのままでいい」と慰めのように良く聞くし言われますが、
実際、言うほど簡単じゃないですよね。

そこまで到達するのにどれだけ失敗を重ねて、どれだけ泣いて失望して、どれだけドン底を味わうことかと思います。

それが本当にできる人は、

自然体である自分を受け入れるだけの、
「自分に対する自信や誇り」と、
諦めというか「悟り」みたいなものを得ていなくては到達できない、

とても難しいことだと私は思っています。


自然体やありのままには至らないけど、
「食べて吐くことに頼らない自分」を受け入れようと思ったのは、

最大の敵であり最大に頼れる存在を、
病気という強引にも近い荒業で、
半分諦めに近い気持ちで切り捨てることができたことと、

事実そうじゃなくても、
「自分自身を頼っていける」そう前向きに考えられる
「今というタイミング」に乗っかった感じでした。



私が今回切り捨てたことは摂食障害で、
摂食障害じゃない大半の人に言わせたら、
「ふーん、良かったね」くらいのことで
「そもそも吐くなら食べるなよ」と言われるようなくだらないことなんですけどね。

切り捨てるその痛みって、自分の人生を生きてきた、自分にしか分からないことで当然なんですよね。


恐らく誰もが
自分の一部のような何かを切り捨てる痛みを、
生きている中で複数回経験すると思います。

要らない枝を少しずつ剪定していって
風通し良く、陽の光を十分受け入れることができるようになった樹木は、
後に美しい花を咲かせ、
やがて立派な果実を実らせることができます。

植物である樹木も人間もきっと一緒です。
そう思うことにしています。

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