昨日までの文章に緩く続いています。
辛気臭い話ばかりで申し訳ありません。
もう少しおつきあいください。
人は死を目前にすると、思いがけない行動に出ることがあります。
まったく性格が変わってしまうこともあるようです。
ドイツ人精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、死期を告げられた人間は以下のような過程を経て、死を受容するとしています。
・否認:自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階。
・怒り:なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
・取引:なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階。何かにすがろうという心理状態。
・抑うつ:なにもできなくなる段階。
・受容:最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階。
もちろん、すべての人がこの過程をたどるわけではなく、いくつかの段階を行き戻りしたり、飛ばすこともあります。
そして、この受容期に大抵の人は、過去を振り返りたくなるようです。
そして、後悔の念に捕らわれます。
「象の背中」(著者:秋元康)という小説があります。
映画化もされているのでご存じの方も多いでしょう。
ただ、私は小説を読んでいませんし、映画も見ていません。
内容はインターネットで調べました。
それはいいとして、この小説の主人公は余命半年なんですが、死ぬ前に今まで出会った大切な人たちにもう一度会って別れを告げようと決意します。
なんというか、随分、自分勝手ですねえ。
相手の都合を全然考えていない。
死期が迫っているからって勝手な感傷にふけっている。
こんなのは、私には見苦しいとしか思えません。
他人は、あんたの死なんか気にしないよ。
そういえば、突然哲学的になって人生を達観するようなことを言ったり、説教をするなんて人もいます。
と思えば、必死に生にすがりつこうとして、あがく人も。
通常の医療は信頼できないと、民間療法や御祓いに頼ったり。
そんな例を沢山聞いたことがあります。
面白いのは、お坊さんで結構高い地位の人でそれまでは悟ったような顔をして、信徒たちには生に執着するのは煩悩だなんてて説教していたくせに、いざ自分が余命を宣告されると取り乱してなんとか助けてくれと医師にすがりつくことがあることですね。
結局、悟りなんていってもその程度のものなのでしょう。
他人にはなんとでもいえます。
死なんて怖くないとか、煩悩を払えとか。
座禅しようが、瞑想しようが「死」なんてものは単なる概念でしかないので、いってみれば他人事なんです。
それが突然具体的になって大慌て。
澄ましていられなくなったんですね。
すでに書いたように、私は、悟っていようがいまいが、人は同じように死を迎えるし、無に帰ると思っています。
後には一切何も残らない。
長くなりますので、明日に続きます。
では