勇敢な信仰が恐れに打ち勝つ:モーセの母の勇気

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2023年4月18日|アーロン・M・シャンプ TGCより

 イスラエルの民は、エジプトで独裁的な支配者の奴隷でした。ファラオは神に逆らい、救いの約束を破り、民全体を絶滅させようとしました。しかし、彼の計画は一人の断固とした母親によって阻止されたのです。
 ファラオは、「すべての民」に対して、次のように命じました。出エジプト記1章22節「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」。すべてのヘブライ人の男児をナイル川に投げ込むようにと命じたとき、モーセの母親はその命令に背きました。彼女は自分の子をできる限り隠した後、ナイル川に浮かべました。姉のミリアムは、モーセが無事にファラオの娘の足元にたどり着くまで見守り、ファラオの娘はモーセを自分の家に招き入れました。つまり、この勇気ある母親の行動は、モーセの命だけでなく、一つの国家も救ったのです。
この勇敢な信仰の姿において、聖書は勇気について何を教えているのでしょうか?
1. 勇気とは、恐怖に直面しても正しい決断を下すこと。
 モーセの母親は、ファラオに従え、という圧力にもかかわらず、正しいことをすることを選びました。出エジプト記には、ファラオの命令に逆らった場合の罰は書かれていませんが、厳しいものであったでしょう。しかし、モーセの母は別の支配者、つまり、神の言葉に従うことを選びました(ヘブル人への手紙11章23節 信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです)。
 真実であるためには、勇気は道徳的ビジョンに根ざしていなければなりません。この母親の反抗的な態度のどこが勇気ある行動なのでしょうか。これは反抗なのでしょうか? 彼女の抵抗が発覚した場合、家族への影響はどうなるのでしょうか? ヘブライ人の姉妹たちは、が自分たちの息子を失っている中、彼女は、自分の息子を手元に置いておこうとしたのは、身勝手だったのでしょうか? いえ、モーセの母親が勇気ある道を選んだのは、ファラオの言葉よりも、神の言葉に耳を傾けたからなのです。彼女は神の律法に従ったのであり、そのリスクは正当化されたのでした。
 信者はまた、"それぞれの状況において、勇気は私たちに何を求めているのでしょうか?"と聞くかもしれません。この問いに答えるのは難しいことです。私たちが、自分の時代を正しく理解するためには、聖書の道徳的な教えと知恵が必要です。聖書はしばしば、私たちを軽蔑(けいべつ)や嘲(あざけ)り、さらには、世からの迫害を招くような道に誘うでしょう。しかし、勇気は、神に従うことの報いを知り、それでもなお、神に従うことなのです。
2. 勇気は神から与えられる。
 一人の母親の勇気が、帝国を屈辱に導き、彼女の国を救いました。私が、この物語が好きなのは、誰でも勇気を持つことができる、と教えてくれるからです。
 あなたは、勇気を持てるかどうか疑っているかもしれませんが、どこに勇気を求めるべきかを知っていれば、勇気を持つことはできます。しかし、私たちは、世俗的な見方で勇気について考えるので、勇気を持てるかどうか疑ってしまいます。勇気は自分の内にあるものだと思い込んでいて、私たちは内面を探せば勇気に辿り着けると考えます。
しかし、勇気を見出すには、内側ではなく、上を見るのです。ヘブライ人の助産婦たちが、ファラオに逆らったのは、彼女たちが、神を礼拝していたからです(出エジプト記1章17節 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた)。
 ネヘミヤは、主を思い起こすことによって、敵を恐れることなく、城壁を再建するようユダヤ人に呼びかけました。(ネヘミヤ4章14節 私は彼らの様子を見て立ち上がり、有力者たちや代表者たち、およびその他の人たちに言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」)。同じように、イエスに目を留めるとき、私たちは自分のレースをよく走るための不屈の力が与えられます。(へブル人への手紙12章1-2節 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱(はずかし)めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです)。勇気は、自分の力を信じることによって、育まれるものではなく、それは、キリストがどんな嵐の中でも私たちとともにいてくださるという、信仰のうちに明らかになるのです。キリストが共にいてくださるなら、私たちは試練を乗り切ることができるのです(マルコの福音書4章35-40節)。
3. 勇気とは、置かれた状況下で自分の能力を最大限に発揮することである。
 モーセの母は、ファラオの命令に反対する法案を提案することができませんでした。また、残忍な政権に対して暴力革命を起こすこともできませんでした。その代わり、彼女は置かれた状況の中で、最善を尽くしたことにより、自分の子を救ったのです。
 クリスチャンは毎日、自分ではほとんどコントロールできない試練や脅威(きょうい)、苦しみに直面しています。私たちのほとんどは、法律を変えたり、軍隊を率いたり、大企業を操縦できる立場にありません。それでは、私たちは勇気をもって行動することができないのでしょうか?
 オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクルは、ナチスの死のキャンプの囚人でしたが、ヒトラーの軍隊が盗むことのできない力を学びました。『人間の意味の探求』という書籍の中で、彼はこう書いています。
"人間からすべてを奪うことができるが、ただひとつは奪えないものがある。それは、与えられた状況の中で自分がどのような態度を取るかということだ。これは、人間に与えられた最後の自由だ。"
 自分が置かれた状況を変えられなくても、勇敢な信仰を選ぶことができます。モーセの母にとって、それは、幼い息子をナイル川に浮かべることでした。ギデオンにとっては、それは「自分の持っている力で」行くことでした(士師記6章14節、すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか」)。神は彼らの小さな信仰を、国を救うために用いられました。わたしたちが持っている力、機会、自由を使いましょう。そして、私たちは、やるべきことをし、残りは神が行ってくださいます。
 勇気はキリスト教の美徳です。それは英雄だけのものではなく、神に望みを託す、すべての人のものです。ウィリアム・カウパーはこう書いています、
 クリスチャンには汝の知らない術がある;
彼は男らしくない恐れを抱くことはない、彼は男らしくない恐れと交渉しない、かれは,その呼びかけに応じ,幾千もの危険に直面する、そして,神を信頼して,そのすべてに打ち勝つ。
 反対意見よりも神の御言葉に耳を傾けることを決意してください。どんな状況においても、神に従いなさい。そうすれば、千の危険に直面してもなお耐え抜く、キリストにある自由を発見するでしょう。
私たち、一人一人の置かれている所に、真実の勇気が現れます様に。
アーメン。

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