#171  食べ物が「生き物の死体である」ことを私たちは忘れているのかもしれない

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昔のレシピに従って食事をつくってみたら…
食べ物が「生き物の死体である」ことを私たちは忘れているのかもしれない


価値観や常識、服飾、言葉など、時代と共に移り変わるものはたくさんある。
なかでも食事の変化は、人間の生活に大きく関係するものだ。
だが「食」の変化は結局のところ、私たちの価値観にどのような影響をあたえているのだろうか。

シドニー大学に所属する歴史家が、古いレシピに従って食事を作ってみて感じたこととは。



消えたメニューの意味

古いレシピや料理本は、かつて食べられていた料理以上のものを記録するアーカイブとして認識されつつある。

私たちの味覚や伝統における不変性と変化、そして調理に使う技術と技法を追跡するのに、レシピは役立つものだ。

手書きであれ市販のものであれ、レシピが記録されているということは、著者がその料理には「食べる価値がある」と感じていたことを表している。







オーストラリアの古いレシピ本をパラパラとめくってみると、まったく同じではないにしろ、なじみのある料理(今ではキャセロールの名で知られている「フリカッセ」や「ラグー」)があれば、今日ではより洗練された形になったババロアやパンネコッタに通じる「フラメリー」や「ブランマンジェ」のような料理もある。




現代のオーストラリアでは敬遠されるような肉料理もある。

なかでも仔牛の頭で作る「モックタートルスープ」や、豚の頭を使った「ブローン」、あるいは仔牛の足のゼリーや、舌の煮込みなどは異彩を放つ一品だ。




ル・コルドン・ブルー(パリで設立された料理教育機関)におけるガストロノミー(食と食文化の研究)の修士号を持つ歴史家として、私はこうした食べ物に興味をそそられる。

これらの料理が今も人気を誇る国がある一方で、オーストラリアの食卓からは姿を消してしまっているのだ。







メニューから、そしてキッチンや食卓、料理本からこれらの料理が消えてしまった──この事実は現代における食の選択について、何を物語っているのだろう。



食の伝統を研究するうえで、私は実践的なアプローチをとっている。というのも、ガストロノミーの学位は学術的な資格だ。

私は正式に訓練を受けた料理人ではなく、ましてやシェフでもない。

そして私はアングロ・ケルト人であるため、上記のような「失われた料理」の大半に、日常生活で触れることはなかった。







そのため、消えた料理を理解するためには──そしてとても重要な「作るプロセス」を理解するには──レシピをただ読むだけでは不充分だ。

根拠を持ってこれらについて語り、執筆するためには、実際に体験してみる必要がある。




思いのほか「不快」な料理手順

私は過去の食事を正確に再現したり、使われていた技術や完成品を完璧に再現したりするわけではない。

そもそも技術的、食品安全的な基準により、材料や、調理に必要な器具は当時と現代では変化している。



だがこの実験的、探求的な「料理の鑑識作業」は、啓発的で有益なものだった。



実際に手を動かすことで、紙に書かれた文字で読むよりもはるかに料理を身近に感じ、それを作るために必要な時間や技術、労力を理解することができる。

近代的な調理設備を使ったにもかかわらず、そうだった。



そして調理をする際の感覚的な、時に直感的な心地は、非常に勉強になるものだ。

これは時に挑戦的で、不快感を伴うものでもある。





ゼリーの結晶が再構成するときに発する、ぼんやりとして何の変哲もない、だが独特の匂いを、今の私は「仔牛の足を煮たときの匂い」と認識している。

店に並ぶゼリーのフルーティーな風味と色合いは、動物由来のゼラチン本来の姿を覆う薄いベールだ。







牛の舌は驚くほど大きく、ずっしりと重い。美しいとは言えない接続靭帯を切り落とし、薄い革のような皮を臓器から剥がした時のことを思い返すと、自分の舌の構造が気になって仕方がなくなってくる。

また、眼球が私を(非難するように……あるいは懇願するように?)じっと見上げてくるなか、コンロの上でぐつぐつ煮えている鍋で動物の頭を丸ごと料理することには、かなりの抵抗感をおぼえた。





豚の顔を解体し、「ブローン」というオーストラリア料理に使う部位(頬、顎、口蓋、舌、鼻)を取り出す作業はネバネバしていて、滑りやすく、ベチャベチャとしたものだ。



こうした体験的、身体的な学びが「失われた料理」に対する反発的な感情を引き起こしている一方、これは私にとって過去と現在をつなぐ具体的な方法だ。

かつてこれらの料理を作り、レシピに従った料理人と経験を共有することでもある。




もちろん、料理に対する感情的な反応は人それぞれだ。文化的、個人的な背景があるだろう。

私が感じた嫌悪感や反感は、かつてこれらの料理を出した料理人、そして食卓を囲む人々にはなかったかもしれない。






食の現実を忘れた人間たち

現代の肉や魚は皮を剥がれ、骨抜きや切り身にされ、脂肪や筋を取り除かれ、取り分けられ、あるいはマリネされ、そのまま調理できるよう、プラスチック包装されて売られることが多くなった。





面倒で血なまぐさい、筋が多く、粘度が高く、ゼラチン質で滑りやすく、ぬるぬるしていて、油っぽい──こういった、動物の部位が持つが持つ「自然」に対する人間の寛容さを、水分補給用の小袋、体液や臭いを吸収する包装は失わせる。







消費者にとっては便利だし、時間の節約になるだろう。

だがこうした調理のあり方は消費者を、素材となった動物から遠ざけ、切り離してしまう。

私たちは実践的な技術だけでなく、それらを扱うことで得られる感覚的なつながりや感情的な感性も失いつつあるのだ。





現代の食肉に慣れている人の多くは、動物の生きていた痕跡を感じさせるような肉の断面に嫌悪感を抱く。

頭や舌、足、尾を嫌悪し、これらを恐らく野蛮にさえ感じるだろう。




逆に、動物のすべての可食部を利用する「ノーズ・トゥ・テール・ダイニング(鼻から尾まで)」は、食肉生産が環境に与える影響を認識し、消費用に飼育された動物の命を尊重する方法であるとして称賛される。





食物は単に食べておいしいだけでなく、道徳的、倫理的に考えてもおいしいものでなければならない──この格言を考慮するとすれば、どうだろう。

かつての食物に抵抗したり、あるいは拒絶したりすることは、偏見だろうか。

それとも洗練された味覚の表れなのだろうか。



過去の世代は、その嗜好や食習慣が粗野で野暮だったのだろうか。

それとも、食の現実を直視した彼らの方が、実は高い倫理観を持っているのだろうか。




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