あしあと(ななせの本棚⑦)

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●こんにちは!ショートショート/短編小説専門作家の瀬名那奈世です。
このブログでは短編小説を投稿していきたいと思います(今回以降は不定期更新になります!)。生活のちょっとした楽しみに、ご依頼の際の参考に、ぜひお役立てください。(※無断転載等は禁止です!※カクヨム等で投稿した作品も含みます)

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No.7  あしあと

 雨の音がする。
 ばらばらと地面に打ち付けられる数多の水滴。むせ返るような土の匂い。頭上の木の葉が生き生きと輝いているのが目でわかる。ぱらぱら、ぱたたたた、小人の足音、鳥のさえずり。

 ぽーんと一つ、切ない響きがこだまする。

 その先にはいつも、神様がいた。

     *

「うわーっ」
「なにしとんじゃぼけっ」

 響き渡った不協和音に、ぱしっという軽快な音が滑り込んだ。官川なつめは反動で椅子の上にうずくまったが、しばらくすると、頭を押さえながら恨めしげに顔を上げ、丸めた雑誌を持って傍らに立つ古代佳に向かって抗議を始めた。

「いきなりはたくな!」
「ちゃんと弾かないおまえが悪い」
「弾けないんだからしょうがないでしょ!」
「弾けないわけないだろ」
「弾けないもん!」
「さっきは弾いてた。ってかわざわざこんなくそ暑い部屋に呼び出しといて弾けないとかふざけんな」
「暑いのはしょうがないじゃん!」

 クーラーの壊れた練習室。黒いグランドピアノの前で、二人は汗をだらだらと流しながら言い争いを続ける。小さな窓から見える空は濃い青に澄み渡り、連日の猛暑が今日も続行することを告げていた。

「だめだ、なつめ。暑すぎて頭おかしくなってきた。出よ出よ、続きは外外」

 そう言うやいなや佳は大股で扉に向かい、さっさと出ていってしまう。なつめは急いでピアノを片付けてから、小走りでその後を追いかけた。

「勝手に飲まないでよ」

 台所で麦茶を飲む佳に文句を言う。佳は白い歯を見せて笑い、麦茶の入ったもう一つのグラスをなつめに向かって突き出した。

「にしても、なつめももう受験生かー。学校決めたか?」
「んー、だいたい?」
「ピアノは?」
「やめる。ここじゃない所に住むから」
「ほお、もったいない。やればいいのに」
「どうやって」
「大学で」
「あほ」

 なつめは机の上に置かれていた雑誌を手に取り、先ほどのお返しとばかりに目一杯振り抜く。少し長めの茶髪が軽やかに宙を舞った。

「佳、髪伸ばしすぎ。もっと短い方がいい」
「まじ? どんくらい?」
「坊主」
「おまえ坊さん好きだったんか」
「ばっかじゃないの。佳がお坊さんだったら、いつになっても成仏できないんですけど」
「まー、偉そうに。昔は『けいちゃん、けいちゃん』って可愛かっ……」

 ぱしんっと大きい音が部屋に響く。テーブルに突っ伏した佳を指さしながら、なつめはけらけらと笑った。

     *

 午後のショッピングモールは夏休みのわりに空いていた。

「さーてぃーわんっ、さーてぃーわんっ」
「コケんなよー」
「コケるわけないでしょー」

 両腕を振りながらモール内のアイスクリーム専門店に向かって歩くなつめの後ろを、佳は身震いしながら着いていった。暑い暑いとタンクトップ一枚で出てきてしまったので店内の冷房が身にしみる。一方なつめは、元々着ていたノースリーブの上から薄手のカーディガンをしっかり羽織っている。

「……ちゃっかりしてるよな、ほんと」
「なんか言ったー?」
「別に」

 なつめが小首を傾げる。よく手入れされたセミロングの黒髪がはらりと揺れた。

「ピアノだ」

 エスカレーター横の広場に差し掛かかる。なつめが急に立ち止まったので、佳はその場でたたらを踏んだ。顔を上げると、いつも並べられている休憩用の椅子やテーブルはどこかへ片づけられ、平台か何かで簡易的なステージが組まれている。その上には、濡れたように輝く漆黒のグランドピアノが置かれていた。

「なつめ?」

 ぴくりとも動かないつむじを見下ろしながら、佳はなつめに声をかけた。縫い留められたように動かない二人を不思議そうに見つめながら、一組の親子連れが通り過ぎていった。

「きれいだね」
「ん? そうだな」
「……いいな」

 なつめがわずかにうつむいた。

「弾いてくれば?」
「やだよ。恥ずかしいもん」
「昔はよく弾いてただろ。楽器売り場の電子ピアノ片っ端からじゃかじゃかいじって、そういえば店員に一回怒られてたな。懐かし」
「昔の話でしょ」

 なつめはぷいとピアノから顔を背けて、出口に向かって一直線に歩き出した。

「待てよ、おまえアイスは?」
「いらない。海行こ、海」
「俺食べたいんだけど」
「知らない」

 投げやりに答えるなつめを追って、佳は自動ドアを抜ける。生暖かいもわっとした空気が、冷え切った身体にまとわりついた。

     *

 道端の定食屋で遅めの昼食を取り、一番近い海辺に向かう。穏やかな波の飛沫が見える頃には時計の針は午後四時を回っていた。擦れた水色の空には、日暮れの気配がにじんでいた。砂浜に降りてサンダルを適当な場所に脱ぎ、二人は波打ち際と並行になるように並んで歩く。

「そういえば、佳ってまだ泳げないの……っと、ごめん」

 自販機で買ったアイスバーをちろちろ舐めながらなつめが尋ねたが、ふかふかとした砂に足を取られて転びそうになったので、佳が支えた。

「泳げないよ。東京出てからは泳ごうともしてない」
「じゃあ津波が来たら死んじゃうね」
「津波に巻き込まれたらほとんどの人間が死ぬだろ。泳げても泳げなくても関係ないね」
「わかんないよ。いざ津波に巻き込まれたら、もっと泳ぎを練習しとけばよかったーって、過去の自分を恨むことになるかも」

 なつめはそう言うと立ち止まって、後ろを振り返った。佳もつられて振り返る。

「……私ね、ほんとは佳に、『おまえはピアノ続けるべきだ』って言ってほしかったの。プロ顔負けの演奏して、東京でピアノ演奏してる佳に才能を見出されて、どっかの教授に推薦してもらって音大入って、コンクール出て優勝しまくって――馬鹿みたいでしょ」

 遠くの方を見つめながら、なつめは訥々と語り出した。

「でも、やってみないと諦められなかった。ごめんね、付き合わせて」

 お盆前になつめからかかってきた電話を、佳は思い出していた。なつめから連絡があったのは、佳が東京の私立音大に合格して以来初めての事だった。

「なんで私は佳じゃないんだろう」
「……なつめ」
「なんで私は私なんだろう」
「なつめ」
「なんにもしてこなかった。私。初めて佳ちゃんの演奏聴いた時、それがすごく素敵で、これだって思って、でもなんにも頑張んなかった。お母さんに無理言ってピアノ始めて、中古だけどグランドピアノまで買ってもらって」

 なつめの足元の砂の色が、ぽつぽつと丸く、濃くなっていく。

「私は私じゃ頑張れなかった。頑張ったつもりだったけど、振り返ったらまっすぐにしか歩いてなかった。まっすぐで当たり障りない、平凡な道しか選べなかったよ」

 大きな波が打ちつけた。いつの間にか陰り始めた砂浜に、なつめの小さくしゃくりあげる声が染みていった。

「なつめは俺じゃない」

 ふいに佳が口を開いた。なつめは黙ったまま、その静かな声を聞いていた。

「なつめは俺じゃないし、俺はなつめじゃない。俺だって、まっすぐ歩いてきただけだよ。いいんだよ、それで。まっすぐ歩いてこれたんだから、それでいいんだ」

 こすり過ぎて痛む目を、なつめはそっと閉じた。幼い頃の記憶がよみがえる。小さな傘を差してする初めての散歩が嬉しくて、幼いなつめは母の目を盗んで駆けだした。

 なぜか開いていた、近所でも評判の屋敷の門。植物が所狭しと生い茂る中庭。雨の音、土の匂い、小人の足音、鳥のさえずり。
 厚手のカーテンは開け放たれていた。こっそりと部屋の中を覗くと、がらんと広い部屋の中に、大きなグランドピアノとタンクトップ姿の少年がいた。

 なつめは隣に立つ佳を横髪の隙間から盗み見る。タンクトップが目に入り、小さく吹き出した。

「ん? どうした、急に」
「ううん……まっすぐ、まっすぐかあ」
「なんだよ」
「佳もまっすぐ歩いたんだね」
「おうよ」
「私もまっすぐ歩いたんだ。まっすぐ歩いて、振り返って笑えたから、それでいいのかな」

 佳が白い歯を見せて笑った。なつめの脳裏に微かに残っていた雨音を、ひときわ大きな海風がさらっていった。

 神様はもういない。
 目の前には、踏みしめた足跡だけが細く長く続いていた。
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