馬酔木(ななせの本棚⑤)

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●こんにちは!ショートショート/短編小説専門作家の瀬名那奈世です。
このブログでは3日に一本のペースで(なるべく頑張ります…)短編小説を投稿していきたいと思います。生活のちょっとした楽しみに、ご依頼の際の参考に、ぜひお役立てください。(※無断転載等は禁止です!※カクヨム等で投稿した作品も含みます)

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No.5 馬酔木

 遠くで野球部のランニングの掛け声が聞こえる。白く輝くユニホームのまばゆさが目に浮かんだ。同時に目の前にある同じく真っ白な原稿用紙に気づき、憂鬱な気持ちになる。私は少し考えて、一向に進まない小説は中断し、少し早い昼食をとることに決めた。

「私、お昼食べるね」

 はい、と、向かいの席に座る後輩が静かにうなずく。視線は手元の原稿用紙に向けられたままだ。私のとは違って、彼のペンはさらさらととてもスムーズに文字を書きつける。私は静かに弁当箱を取り出し、春らしい柔らかな光に包まれた中庭を見やる。白い蝶々が一匹、ひらひらと窓を横切っていった。

「ねえ、滝沢君」
「はい」
「部誌、どうしようか」

 滝沢君は律儀にペンを置いて、今度はとてもまっすぐ私の目を見てきた。私は箸を持ったままだったのでなんだかとても申し訳なくなり、ちょっと上ずった声が出る。

「部員、二人だけだし、一年生も入りそうにないし。これじゃあ印刷も製本も大変だから。滝沢君はどうしたい?」

 文芸部では昨年度、二カ月に一度くらいのペースで部誌を作り、校内で配っていた。私の一つ上の学年は部員が五人もいて、しかも受験勉強をしながら作品も書くという強者揃いだったから、その先輩たちが卒業してしまった今、私は部誌を作る意義について少し悩んでいた。

「そうですね」

 滝沢君はこてんと首を傾けて視線を宙に投げる。漂うほこりでも追っているのだろうか、ゆったりと室内を見回した後、またまっすぐ私の目を見て不器用そうに言葉を紡ぐ。

「僕は、出したいです。去年みたいに頻繁には無理でも、半年に一回とかでも、やっぱり一番大事な気がするので。それ見て一年生が入ってくれるかもしれないし、それに僕、沢山作品が書けるのは嬉しいです」
「……そっか。じゃあ、そうしよう」
「はい」

 まっすぐ、誤魔化さず、丁寧で的確な返答だった。もやもやしていたものがすっと薄らいで、代わりにじんわりとした温かさが私の胸に広がる。滝沢君の誠実さは、いつも私を救ってくれる。

 好きだなあ。

 ゆっくり、ゆっくり、その想いは染み込んでいく。彼に対してこの気持ちが芽生えたのはいつだろう。特別格好良くも個性的でもない彼だけれど、真摯な態度と時折見せる柔らかな笑みは、私の目に他の何よりも魅力的に映る。

 好きだと、言ってみようか。

 ぽろっと浮かんだ考えを慌てて否定する。そんなことをしたら、もう戻れない。この場所に、この時間に。それを想像するだけで、私はとても怖くなる。

「食べないんですか」

 ついと首を出した滝沢君を、私は思い切り突き飛ばしてしまった。教室の中に、がたがたと椅子の転ぶ音が響く。痛っという小さな悲鳴と、うわあああっという私の情けない叫びが重なって、静かな空気が一瞬で騒々しいものに変わる。
 立ち上がって机の反対側へ回ると、滝沢君は片方の手で腰をさすりながら、もう片方の手で倒れた椅子を起こそうとしていた。

「ごめん! ほんと、ほんとに。ごめんなさい」

 ごめんなさいごめんなさいとつぶやきながら、滝沢君の代わりに椅子を起こす。起こしながら、自分のどんくささを呪う。いくら驚いたからといって突き飛ばすことはないだろう。これじゃあ私が滝沢君のことを嫌いみたいになってしまう。
 そんなんじゃないのに。
 全然、違うのに。

「先輩、大丈夫ですから」

 滝沢君がなだめるように言った。なんだか私の方が年下みたいだ。

「ごめんね」
「はい」

 お互いに席に戻る。向かい合った状態で、居心地の悪い沈黙が流れる。私は机の上に広げたお弁当の卵焼きを、ただじっと見つめていた。焦げ目のついた貧相な卵焼き。たまに自分で作ったと思ったらこの有様だ。目のふちが熱くなってくる。

「あ、蝶々」

 滝沢君の声に、私は顔を上げた。

「どこ?」
「ほら、あそこです。あの白い、鈴蘭みたいな花のところ」

 目を凝らす。可憐な花に紛れるようにして、一匹の白い蝶々がとまっていた。

「可愛いですね。僕、蝶々好きです」

 滝沢君の瞳がきゅっと細まる。好きですと動いた唇、優しい声、私の大好きな柔らかい笑み。耳が熱くなる。心臓が急くのと同時に、みぞおちの辺りにぐっと掴まれたような冷たさが襲う。

 横顔が寂しい。私は滝沢君の、透き通った両目が見たい。

「先輩?」

 急に黙った私を、滝沢君は不思議そうに見た。

「どうしたんですか?」
「……あの花」
「あの花?」
「あの鈴蘭みたいな花。アセビっていうんだよ。馬が酔う木って書いてアセビ。花言葉はね、」

 ――あなたと一緒に旅をしよう。

 へえ、と、滝沢君は笑った。
 その瞳があまりにも純粋で、私はまた一つ、溢れそうになった言葉を飲み込んだ。
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