黄金の魚(ななせの本棚④)

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●こんにちは!ショートショート/短編小説専門作家の瀬名那奈世です。
このブログでは3日に一本のペースで短編小説を投稿していきたいと思います。生活のちょっとした楽しみに、ご依頼の際の参考に、ぜひお役立てください。(※無断転載等は禁止です!※カクヨム等で投稿した作品も含みます)

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No.4  黄金の魚

 音のない静かな夜だ。薄い膜のように辺りを漂う微かな光を受けて、店内に置かれた家具の輪郭だけが冷たく浮かび上がる。縦長の窓が横に並んで二つ。その前に四人席とパーテーションが一つずつ。向かい合うようにして木製の小さなカウンターがあり、奥にそびえ立つ棚は様々な種類の茶葉と無数の本で埋め尽くされている。こぢんまりとした空間は狐に化かされているかのように不安定で、ソラが揺らめくたびにぴちゃりと音を立てて震えた。

 世間から取り残されたその店の前で、誰かが立ち止まった。繊細な静寂を切り裂く無粋な足音に若き店主は目を細める。それから再び文庫本に目を落とし、これから聞こえるであろう荒々しいノックを、息をつめて待ちわびる。

「おーい、開けてくれ」
「もう開いてる」

 ドアを開けてずけずけと入ってきた侵入者はカウンターと棚の間に寝転がって本を読む友人を見つけ、眉をひそめた。

「椅子に座って読め」
「ぼくはこの体制でしか読書ができなくてね」

 侵入者は一瞬怪訝そうな顔をしてから肩をすくめてカウンターの内側にまわり、店主の足を跨いで棚の横の壁に手を伸ばす。

「明かりは点けないでくれ」
「点けなきゃ読めないだろ。こんなに暗いんだから」
「暗いからいいのではないか。まあ、心配しなくても読書はやめるよ。せっかくきみも来てくれたことだし」

 店主は本を閉じて優雅に立ち上がる。

「きみは何が飲みたい?」
「ダージリン」
「却下だ。ウーロン茶か水かオレンジジュースにしてくれ。牛乳もあるぞ。でもおすすめはしないよ。確か消味期限が――1か月前」

 電気のスイッチの横の扉から入れる奥の部屋でペットボトルやビニール袋の擦れる音がうごめく。冷蔵庫の明かりが漏れ出て、藍色の床に黄色い筋を描いた。

「……ウーロン茶」

 侵入者は何か言いたそうに口を開いたが、やがて疲れたような複雑そうな顔で言葉をのみそう言った。戻ってきた店主からグラスを受け取る。その冷たさに驚きつつ一口飲み、肩を震わせて抗議の視線を向ける。

「この店寒すぎるぞ。真夏だってのに」
「そうかい? 二十度はあるはずなんだが」
「真夏で二十度はおかしいだろ」
「これでも暖かい方なんだ。きみが来る前はもっと寒かった。きみはもっと自分の幸運を自覚するべきだよ堅羽君」

 カウンターに寄り掛かる店主が音を立てながら喉ぼとけを上下させる。白く浮き上がった首筋を五秒ほど見つめてから、堅羽は深くため息をついた。

「シャーロック・ホームズ」
「正解。どうしてわかった?」
「それ」

 カウンターの上には、先ほど店主が読んでいた文庫本が表紙を伏せるようにして置いてある。堅羽が静かに裏返すと、灰色の表紙に白抜きの文字で『シャーロック・ホームズの冒険』と書いてあるのが見えた。

「お見事。さすが」

 店主はうっすらと頬を紅潮させて歳相応の口調に戻る。堅羽に何か面白いことを仕掛けようと、店を閉めた後からずっと考えていたのだ。冷たい床の上での腰痛との闘いが報われてよほど嬉しいらしいく、ひとしきり堅羽を褒めちぎってから、ふと真顔に戻った。

「そういえばどうしてこんなに遅いんだ? 予定では三時のはずだったろ」

 細い左手首を見る。男が着けるには珍しい茶色いベルトの華奢な時計は、午後七時二十分を指している。

「迷ったんだ」

 堅羽は苦々しく呟いた。

「四時間半も?」
「四時間半も」
「駅から徒歩十分の店に?」
「駅から徒歩十分の店に」

 店主から目線を逸らす堅羽だが、耳の先が赤く色づいている。こらえきれなくなった店主がかすれた笑いを漏らすと、いよいよ顔全体を朱に染めて言い訳をしだした。

「この店が悪い! 確かに迷わず行けば十分さ。でも絶対に迷うんだよ! 道は細いし入り組んでるし」
「それは堅羽が方向音痴だからだろ」
「俺は方向感覚はいい方だよ。でもこの店来るときだけは絶対に迷うんだ。呪われてる!」

 店主は小学生のように主張する堅羽をなだめながら窓際の客席へ誘導する。

「ほら、今夜は月がきれいですね」
「月なんか出てない」
「まあまあ」

 無理やり席に座らせて肩を叩き、急いで奥へ向かった。その細長い背中を見つめる堅羽は徐々に落ち着きを取り戻していき、今度は歳不相応にムキになったことに対して赤面した。

「落ち着いた?」
「ああ。悪かった」

 差し出されたグラスを受け取る。すぐに飲もうとして、傾けかけた手をとめた。
 その表面があまりにも滑らかできれいだったからだ。

 薄闇の中で青白く染まる液体には波一つたっていない。ソラのように揺らめくこともわずかな光をとらえることもなく、ひたすらに均一で、チューブから出した絵の具をそのまま塗ったような飾り気のなさはいっそ寂しい。それでも堅羽には、その飾り気のなさこそが美しく思えた。

 ごくりと生唾を飲んで、再びグラスを唇に付ける。つんとしたにおいが鼻の根元を刺激する……

「……お前これ」
「消味期限一か月前の牛乳だけど」
「バカ野郎!」

 危うく飲むところだった腐りかけの牛乳入りグラスをテーブルに叩きつけ、店主の頭をぺちりと叩く。

「友人に腐りかけた牛乳を提供するな」
「ごめん。ウーロン茶も水もオレンジジュースも、もうほとんどなかった」
「頼むから店の紅茶を出してくれ。ってか水がないってどんな状況なんだ……」

 両手で顔を覆う堅羽を愉快そうに眺めて、店主は笑う。

「堅羽が無視するからだよ」
「何を」
「さあ? 本当にデリカシーがないよね。そんなんだから道に迷うんだ」
「……道は関係ないだろ」
「いや、ある」

 店主は本棚に向き直り、表情のわからない淡々とした声で続けた。

「希望に満ちた人はここに来るまでの細くて薄暗い路地を見つけられないんだ。温かみをもっている人は、すぐ横にある寂しさに気づけないからね」
「何が言いたい」

 堅羽は弦のように震える声を悟られないよう、慎重に発声した。発声してから、自分の失敗に気づいて顔をしかめる。反対に硬くなりすぎたのだ。今すぐ立って薄い肩を叩くべきかどうか、逡巡する。

「君はいい親友だってこと」

 振り返った店主の笑顔を見て、堅羽は自嘲気味に笑った。
 優秀な理解者になれない自分がおかしくてたまらなかった。

「それ、どうしたんだ?」

 堅羽がこちらを指さすと、下手くそな絵みたいに歪んだ店主の顔がソラに映り込む。

「すくったんだ。去年の夏祭りに」
「お前そんなに器用だったか?」
「いや。だから一匹しかすくえなかった」

 堅羽は「そうか」と真剣な面持ちで顎に手を当てる。

「……八時か。間に合うな。よし、行くぞ」
「どこに?」
「花火大会だ。二駅先でやってる。そいつの仲間を獲りに……」

 言うと同時に扉へ歩き出した堅羽の右手首を、店主はぐいと握りしめた。驚いて振り返る堅羽を真っ直ぐ見上げて、四角い水槽の中を漂う尾びれのように左右にゆっくりと首を振る。

「いいんだ」
「でも」
「いいんだ。そいつはひとりで――いや、ひとりがいい」

 堅羽は店主の瞳の中に、静かなソラを見た。

「ひとりだからいいんだよ」

 小さく震える冷たい指先に気づき、左手を重ねようとして、やめた。かわりに今度は自然な状態を意識して、それでもやはり震えてしまう声を喉から絞り出す。

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