ウォームグレーの巣(ななせの本棚③)

記事
小説
●こんにちは!ショートショート/短編小説専門作家の瀬名那奈世です。
このブログでは3日に一本のペースで短編小説を投稿していきたいと思います。生活のちょっとした楽しみに、ご依頼の際の参考に、ぜひお役立てください。(※無断転載等は禁止です!※カクヨム等で投稿した作品も含みます)

ーーーーーーーーーー

No.3 ウォームグレーの巣

 未来のことを考えると、いつも足が重くなる。

「……翼が欲しいな」

 シャーペンがかさかさと走る部屋の中で、穂坂莉音はゆっくりと口を開いた。ぴたり、部屋を満たしていた音が半分になる。莉音が前に座る人物の様子を伺うと、つんと冷たく澄ました顔は、机の上の問題集を少し眠たげに見つめていた。

 ――ああ、気づいてない。

 ちょうどいいやと莉音は思った。深く追求されても、困る。でも何となく話を聞いて欲しい気分だったのも事実なので、少し残念だった。

――嘘だ。

 莉音は顔を伏せ、うっすら笑う。嘘だ。やっぱり聞こえていて欲しかった。深追いされても困るけれど、でもそんな、中身のない、わたあめのように軽くて口当たりのいい甘い空想を、三園真由美に話したかった。
 胸の奥がささくれ立つ。
 他の人なら、気にしない。そんなもんだと思う。でも真由美は違う。真由美には、期待している。自分自身がほろほろとこぼしてしまうような些細な感情を、真由美にはすくいとって欲しい。そう願う自分を自覚している。

 ――重いかな。

 うん、重い。友達同士なのに重いとか、なんか変だけど。
 莉音の気持ちは、そのままどんよりと曇っていった。そしてそんな自分に、莉音は戸惑った。いつもは負けじとけしかけてくる反対勢力――この場合、『重くない』と主張する連中――が、全く思考内に登場しない。変だ。おかしい。ちょっと、疲れすぎたのかもしれない。

 莉音の頭の中は、いつも混沌としている。

 『相手の立場に立って』という表現がよく使われるけれど、莉音の場合、自分の中にいくつもの見晴台が同時に存在している。どんな角度からでも物事を見ることができる。便利そうに見えて、これが案外厄介だ。一つのことを考えていると、ふいに正反対の考えが浮かんでくる。どっちももっともらしく見えて選べないし、どちらが自分の意見なのかもわからない。だから莉音は人一倍優柔不断で、回りくどく、いつも心のどこかでいらいらしていて、それでいてその負の感情に浸りきれない、宙ぶらりんな性格をしていた。

 色で言えば灰色。

 莉音の目に映る世界も、同じ色をしていた。明確な答えなど存在しない。光も闇も全て中和されて、ねずみ色に帰結する。そんな世界で、莉音は生きていた。
 そんな莉音にとって、今のような心境は珍しかった。やはり疲れているのだろう。何があったというわけでもないけれど、息をするだけでもエネルギーは体内で消費されているのだ。まあ、そんなものだろう。

 ――翼が欲しい。

 真っ白で大きな翼が欲しい。何もかも振り払って、忘れたい。自分の思考を放棄したい。風を切って、太陽の匂いを胸いっぱいに吸い込んで永遠に飛び続けられたらどれだけ幸せだろう。

 冷たい物が頰に触れた。

 小さく声を上げながら莉音が顔を上げると、真由美がアイスの小袋を突き出してきた。咄嗟に受けとる。真由美は満足そうに微笑んで、休憩と言いながらこたつに入り込んだ。莉音のすねに触れた足先はひんやりと冷たい。

「疲れてるね」

 スマートフォンの画面を見ながら、真由美は素っ気なく言った。口調の素っ気なさを埋め合わせるように、足の指が莉音を突っつく。莉音はその足を横にずらして、一口、アイスを口に含む。甘い。バニラだ。舌に絡みつくほど濃厚で、身体の芯まで染み込んでくる。おいしい。
「ちゃんと休んだ方がいいよ、莉音」

 チョコバーをかじりながら、真由美は言った。

「……十分休んでるけど」
「でも、翼の話したでしょ」
「翼?」
「そ。莉音ね、疲れてる時絶対翼の話するよ。よっぽど地上にいるのが嫌なんだね」

 ――そうだろうか。

 そんなような気もするし、違うような気もする。今はただ、真由美が自分の呟きをしっかり聞いていて、気遣ってアイスを持ってきてくれたことが嬉しかった。

「ありがと」

 お礼を言ってみる。真由美はどういたしましてと応じてから、ずいと身を乗り出してきた。

「で、どうしたの? 何があったの?」

 莉音は間近に迫った真由美の顔から目を背ける。

「何にもないよ、本当に」
「本当に? 本当? 本当かなー?」
「やめてよ、ちょっと。酔ってるの?」
「うん。要介護」

 机を回り込んだ真由美は、そのまま全体重を莉音の両肩にかけてきた。こたつの下に引かれた絨毯に背中が触れる。こたつ布団のもこもことした生地が頰をくすぐる。視線の先に、明るい茶色の天井が見える。

 真由美はそのまま、莉音の胸の上で動かなくなった。

「寝たの、真由美?」

 返事はない。静かな吐息と、肺が膨らんだり縮んだりする様子だけが伝わってくる。寝たのか――いや、狸寝入りだ。真由美は全く酔っていない。あのチョコバーにアルコールは含まれていないはずだし、お酒の代わりにシャンプーの香りが莉音の鼻腔をくすぐる。

「真由美」

 頰を突くと、突いた指に猫のように擦り寄ってきた。あくまで寝ているという態を貫き通すつもりらしい。

 ならば仕方がない。
 莉音はこのまま、しばらく眠ることにした。

 眠ると決めると、途端に何もかもがどうでもよくなってくる。先ほどまで解いていた世界史の問題も一日中脳裏に張り付いていた模試結果も、はらはらちぎれて床の隅にできた暗がりに消えていく。自分の輪郭もなくなるほど外身を剥がされて、最後に残ったのは舌にも歯にも絡みついて一体化してしまったかのようなバニラの風味だけだった。碇を外された船のように、莉音の思考は現実ではないどこかに投げ出される。

 夢は見ない。

『何もない時間』は、莉音の脳みそにとってとても貴重なのだ。

     *

 次に莉音が目を開けた時、胸の上には小さな毛布が乗っていた。ゆっくりと起き上がった莉音は部屋全体を見回して首をひねる。

「あれ、莉音?」

 スウェットを着た真由美を、莉音は訝しそうに見つめた。

「真由美、なんで居るの」
「ここが自分の家だからだけど」
「なんで私真由美の家に居るの」
「勉強会って言ってたでしょ」
「……ふうん」

 莉音は虚ろな瞳のまま小さく何度もうなずき、やがて緩慢に立ち上がり、あくびをしながら机の上の教材をまとめ始めた。

「帰らなきゃ」
「ん? なんで?」
「だって今何時? 帰んなきゃ」
「帰んなくていいよ」
「なんで」
「元々そういう話だったし。どうしても帰るって言うなら送ってくけど、もう夜中の十二時だよ。家の人寝てるでしょ」
「……わかった」

 真由美の言葉を神妙な面持ちで聞いていた莉音は突然、その場に寝転がった。おやすみと呟きながら闇の世界に引きずり込まれていくのを、真由美が慌てて引き止める。

「歯磨きしなきゃ」

 手渡された歯ブラシをじっと見つめる莉音を無理矢理立たせて、洗面所へ向かう。水を出して歯ブラシを濡らし、歯磨き粉を着けて再び手渡すと、今度は右手が勝手に歯磨きを開始した。真由美は微笑みながら、自動歯磨きロボット化した友人に声をかける。

「莉音」

 歯磨き粉で口を満たしたままの莉音は、くぐもった声で返事をした。

「何かあった?」
「なひか?」
「そ。何か、辛いことでもあった?」
 莉音は右手の動きを止めて、じっと虚空を見つめる。何かを真剣に思い返そうとしているようだ。

「ふらくは、ないけど」

 ――辛くは、ないけど、

「うん」
「だひがく、ひめたよ」

 ――大学、決めたよ。

「どこ?」
「むふはひいほほ」

 ――難しいとこ。

 真由美は一人納得する。歯ブラシを取り上げて水の入ったコップを渡すと、莉音は機械的に口をすすいで廊下を歩いていった。居間に敷かれた布団にぱたりと倒れ込むと、そのまま寝息を立て始める。

「……あ」

 後から入ってきた真由美は顔をしかめた。莉音は掛け布団も下敷きにしている。予備の物はもうないので、莉音の下から掛け布団を引っ張り出してかけてやらなければならない。

「うっ……あーもう、莉音……」

 完全に脱力しきっている莉音の身体は細い見た目からは想像もつかないほど重い。かなりの重労働だ。幸いなのは、莉音が一度寝たら朝まで起きないことだけである。さっきの歯磨きも、その時に交わした会話も、莉音の無意識の産物だ。莉音は絶対に、睡眠中に覚醒しない。

「……真由美」

 莉音が手を伸ばし、屈みこんでいた真由美の腕を思い切り引っ張った。真由美の首に両手を回して、自分の方に引き寄せ、そのまま肩口に顔を埋める。

「真由美」
「うん」
「大丈夫、かなあ」
「わかんないよ。そりゃ、勉強しなきゃ」
「ん……違う」

 莉音はむずがるように額を押し付けた。しがみつく両手に力がこもる。

「私、大丈夫かなあ」

 莉音はそれだけ呟くと、再び静かに寝息を立て始めた。真由美は暗闇の中で、その呼吸音と時計の針の音に耳を傾ける。規則的なリズムはやがて、真由美の中にも抗いがたい眠気を呼び起こす。真由美は右隣に敷いておいた自分の分の布団から掛け布団だけを引っ張って自分と莉音に掛けた。こうすれば、風邪もひくまい。

 沈んでいく意識の中で、莉音のことを想う。

 莉音はいつも、考えすぎる傾向がある。考えすぎて、動けなくなる。そして恐らく――そんな自分が嫌いなのだろう。でも、嫌いなものを嫌いだと言えない。度胸がないのではなく、好きも嫌いも、自分の見方次第だとわかっているからだ。しかしだからと言って、嫌いという感情が消えてなくなるわけでも、ましてや自分自身のことを好きになれるわけでもない。

 複雑な人間なのだ。黒でもなければ白でもない。灰色の世界を生きている。
 そんな莉音が唯一自由になれるのが、睡眠の時間だった。

 真由美がそのことに気づいたのは小学校六年生の時だ。泊まりにきた莉音と今日のように、二人で布団を並べて寝ていた。夜中、ごそごそという音で目を覚ました真由美は、自分の背中にしがみつく莉音を発見した。お腹でも痛いのかと慌てる真由美の手を握って、幼い莉音は口を開く。

 まゆみ、と名前を呼ばれた。

 暗闇の中なのに、その瞳に涙が浮かんでいることがすぐにわかった。驚いて何も言えない真由美の腕の間に、震える小さな温もりが潜り込んでくる。真由美は恐る恐る背中に手を回して力を込めた。莉音は額を擦りつけてきたかと思うと、酷く甘えた声を出す。

「まゆみ」

 真由美の全身が震えた。
 いつもはそれなりにしっかりしていてわがままも言わず、代わりに誰とでも一定の距離を感じさせる莉音の安心しきった声は、真由美に信頼されることの心地よさを覚えさせるには十分だった。その瞬間真由美は、もう半人分の命を背負い込むことになる。

 ――重い?

 以前、真由美は聞かれたことがある。それが昼間、ぽろりとこぼれた呟きだったのか、夜、不安そうに投げかけられた問いかけだったのか、もう忘れてしまったけれど。

 重いよ。
 そう、真由美は答えた。
 半人分とはいえ命は命だ。それなりの重さがあって当たり前である。しかし真由美にとって、それは幸せの重さだ。愛しいものを大切にできることは、それだけで背負い込むだけの価値がある。莉音の命の分の重さがなければ、真由美は今とは全く違う生き方をしていたであろう。そういう自覚がある。

 そして真由美は、今の自分をとても気に入っている。

 隣で眠る莉音の髪を一度だけ撫でて、真由美は今度こそ夢の世界に引き込まれていった。眠りに落ちる瞬間はいつもとても気持ちがいい。明日は休日なので、ゆっくり寝てられる。起きたら、勉強でもしよう。勉強はそこまで好きではないけれど、莉音と一緒だと一気に楽しさが増す。わからないと嘆く莉音を、こっそりと観察するのがたまらなく愉快なのだ。もちろん、つんと澄まして興味がないふりをするのを忘れない。

 ――翼が欲しいな。

 莉音は世界地図を見ていた。いつか、本当に飛び立ってしまうのかもしれない。でもそれは今じゃない。鳥が飛び立つのは、朝の始まり、昼と夜の境目、黒い空をピンクに染めて、真っ白に輝く太陽が昇る瞬間だ。それまではまだ、時間がある。

 おやすみ、莉音。
 真由美がうわ言を言う頃、外にはまだ、降るような星空が広がっていた。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す