失恋喫茶~いちごみるく

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「あー
 いい匂い」
 それは、温かいホットミルクの匂いに釣られて幼馴染の萌ちゃんが静かに言った言葉だった。
 その場にいたみんなが驚いた。
 なぜなら萌ちゃんはもう目を覚まさないと思ったからだ。
 そんな私たちの不安なんてお構いなしにいつものマイペースでこう言葉を続けた。
「私、いちごみるくが飲みたい。
 冷たいやつ」
 人が死が近づくと暑く感じることもある。
 今は7月の半ば。
 萌の希望により空調は18℃。
 その場にいたみんなは、上着を着ていた。
 萌ちゃんの夫である太郎君。
 萌ちゃんの息子の瓜君と娘の桃ちゃん。
 副担当医の銘さんとその妹で看護師の千春さん。
 そして担当医の私、草薙 田茂(くさなぎ たも)。
 夏が近いのに少し肌寒い。
 梅雨がまだ開けていないが外は蒸し暑い。
 そんな日だった。
 萌ちゃんは、薄手のパジャマを一枚着ているだけ。
 なのに気持ちよさそうに笑っていた。
 千春さんが、自動販売機でいちごみるくを買ってきた。
 そして私たちは、ティーパーティーならずミルクパーティーを始めた。
 小さな小さなミルクパーティーを。
 それは、ほんの少し前。
 桜が咲き始めたころの出来事だった。
 私はほんの少しの冒険心から少し離れた町の喫茶店へやってきた。
 するとそこで私は運命の出会いをする。
「いらっしゃいま――」
 女性が私の顔を見て驚く。
 私も驚いた。
 なぜなら幼馴染だった萌ちゃんがそこにいたからだ。
「懐かしいね」
 萌ちゃんがそういって笑う。
「うん、会わなくなってから15年?くらいになるね」
 私はそういうと胸が切なくなった。
 時間が経つのは残酷で、でもほんの少し優しい。
 そんな世界だ。
「田茂くん、なに食べる?」
「んー」
 なにも考えれない。
 なにも考えたくない。
 この奇跡とも言える出会いに心が躍る。
「おかあさん!ただいまー」
 男の子と女の子が喫茶店の中に入ってきた。
「おかえり!」
「あれ?
 いまお母さんっていった?」
 私は、驚いた。
「うん!私こう見えてお母さんなんだよ!」
 萌ちゃんが嬉しそうに目を細くさせる。
 そうか……
 もう30も後半になると人生色々あるよね。
 そんなもんさ、人生なんて。
 ただ今はこの出会いに感謝しよう。
「そっか」
 私は精一杯の笑顔を作った。
「田茂くんは?結婚とかは?」
「はは、バツイチ子なしさ」
「そっか!田茂くんも色々あったんだね!」
「うん、36歳だもんね」
 少し泣きたくなった。
 でも泣けない。大人だから……
「おじさん誰?」
 女の子がそういうと男の子が言う。
「えー。ギリお兄さんじゃない?」
「えー、おじさんだよ!」
 そうしておじさんおにいさん戦争が始まる。
 兄妹かな?仲が良さそう。
「ほらほら、喧嘩しないの!
 この人は草薙 田茂くん!お母さんの友達だよ」
 萌ちゃんが腰に手を当てて言う。
 なんかこうジブリっぽい。
「タモさん!」
「タモさん!」
 男の子と女の子の目が輝く。
「ほら!ちゃんと自己紹介しなきゃダメだよ?」
「はい!田中 瓜です!」
 男の子がそういうと女の子が言う。
「はい、田中 桃です!」
 明るく元気に挨拶をしてくれた。
「さ!手を洗ったらお母さんのお手伝いしてね!」
「はーい」
 ふたりは元気よく挨拶をするとカウンターの奥へと入っていった。
「田中?ってもしかして太郎君と?」
「そそ、結婚したよ」
「そっか」
 軽く失恋した気分になった。
 でも、太郎君か。
 なんとなくわかる気がする。
「でで?なにたべる?」
「じゃオムライス」
「了解!」
 萌ちゃんは嬉しそうに笑うとカウンターのキッチンで手を洗う。
「ちゃちゃっと作るね。
 って、あ。痛ッ」
 萌ちゃんが目を細め胸を抑える。
「胸どうかしたの?」
 それを聞いた萌ちゃんが苦笑いで言葉を返した。
「なんか胸の付け根にしこりができちゃって……」
 私はこのとき嫌な予感がした。
「少し触ってもいい?」
 私がそう尋ねると萌は静かに頷いた。
「えー!えっち!」
「いや、そうじゃなく……」
「知ってるよ。
 田茂くんお医者さんだもんね」
「うん」
 私は、萌ちゃんの胸のしこりの部分を触った。
 そこには小石のような硬いものがあった。
「なにかわかった?」
 萌ちゃんが心配そうな声でそう尋ねた。
 私は医者だ。
 でも……
「詳細はなんとも言えない。
 早めに病院で精密検査をしたほうがいいよ?」
 私はそういうことしか言えなかった。
「じゃ、時間があるときに行くー」
 萌ちゃんが苦笑いを浮かべそう言った。
 しかし、萌ちゃんが私の病院に来たのはそれから一ヶ月が過ぎようとしたころ。
 そして、そのときの萌ちゃんの検査結果は最悪だった。
 結果は、乳がん。
 しかも長期に渡り放置していたのと若さからがんの進行はかなり悪化していた。
 余命が僅かなことは、萌ちゃんの夫の太郎と萌ちゃんの両親に伝えた。
 萌ちゃんの担当は私がすることになった。
 そして、入院当日。
「ベッドふわふわー」
 萌ちゃんは、今年で36歳。
 まるで子どものようにベッドの上できゃっきゃとはしゃいでいる。
「田茂くん!」
 萌ちゃんが不意に私の名前を呼ぶ。
「何どうしたの?」
 私の心配を他所に萌ちゃんは楽しそうに言う。
「病院のベッド気持ちいいね!」
 萌ちゃんはそんなことを言いながら枕に顔を埋める。
「ちょっといつになっても子ども過ぎない?」
 副担当医の銘さんがそういうと萌ちゃんが口を尖らせる。
「なによー。
 貴方たちできてるの?」
「たまたまよ」
 銘さんがそういった。
 なぜなら銘さんとその双子の妹の千春さん。
 そして太郎君と萌と私。
 みんなひっくるめて幼馴染なんだから……
 運命とは凄いものだ。
「さぁ、着替えるから太郎君とふたりきりにさせて?」
「はいはい、おじゃま虫は出ますよーだ」
 銘さんがそういって私の背中位を押した。
 病室には萌ちゃんと太郎君のみが残った。
 すると病室からすすり泣く声が聞こえた。
 私はすぐに病室に戻り「大丈夫」と言って抱きしめてあげたかった。
 でも、萌ちゃんが抱きしめてほしいのは私じゃない。
 萌はこのあとすぐに手術が待っている。
 太郎が病室の中でぎゅっと萌を抱きしめているのであろう。
「太郎君。
 私、怖いよ」
 萌ちゃんの声が聞える。
 それはきっと心の底から信頼できる人に見せることができる弱さだと思う。
「絶対手術成功させてね」
 千春さんが真剣な目でそう言った。
「全力で頑張る」
 私がそういうと白衣を弱々しく引っ張る何かを感じた。
 私は、目線をその子たちにあわせた。
 萌ちゃんの子どもである瓜君と桃ちゃんに。
 「お母さん治る?」
 瓜君の言葉に私は答える。
「頑張るよ」
『治す』そう言いたかった。
 だけど、この手術は難しい。
 100%治る補償なんてどこにもない。
 手術の時間は8時間。
 手術は成功した。
 そう言いたかった。
 でも、そう言えるほど現実は甘くない。
 組織検査の結果。
 がんの段階評価は5に達していた。
 手術は成功した。
 だけど想像以上にがんは転移していた。
 肺にまで達していたのだ。
 しばらく萌ちゃんは入院した。
 でも、すぐに退院した。
 それが、最後の帰宅になるかもしれないことを萌ちゃんは知らない。
 萌ちゃんが退院して家に戻り。
 そろそろ子供たちも不安から解放されようとしたころに萌ちゃんは、自宅で意識を失い倒れた。
 それは萌ちゃんが退院して一週間後の夜のことだった。
 虫たちの合唱の中。
 救急車のサイレンだけが虚しく響いた。
 私はそのとき、夜勤で仮眠を取っていた。
 私の携帯に一本の電話が入る。
 太郎くんからだった。
 萌ちゃんが、意識を失い倒れたことを消え入りそうな声で伝えてくれた。
 萌ちゃんが目を覚ましたのは、それから2日後。
「あ、田茂君おはよー」
 私が、萌の血圧を測っているとき静かに目を覚ました。
「萌さん、倒れたことは覚えているっすか?」
 太郎君は、優しく笑い萌ちゃんの手を握りしめた。
「うん、なんとなく覚えているよ。
 私、もうダメなのかな?」
 萌ちゃんは涙を流しながら弱々しくそう言った。
「そんなことはない!」
 普段大人しい太郎君が大きな声を出した。
 太郎君自身も認めたくないんだろう。
 認めてしまうと萌ちゃんの病気を受け入れなくてはいけないからだ。
 小さな声で言葉をつなげた。
「大丈夫。
 大丈夫だから……」
 その声は消え入りそうだったけど強かった。
「もういい……もういいよ……
 ヤダよ!死にたくないよ……・!」
 萌ちゃんは、涙を流し大きな声を出した。
 人は死ぬときその時期を感じてしまうことがある。
 恐らく萌ちゃんもそれなんだと思う。
 萌ちゃんの声を聞いて心配で駆けつけた千春さんや銘さんも病室に入ってきた。
 夜勤で疲れているはずなのに疲れの表情など一切見せなかった。
 萌ちゃんは、それから2時間半涙を流した。
 そして少し冷静になった萌が言った。
「ねぇ。
 子どもたちに最後の挨拶をしてもいいかな?」
 萌ちゃんのその声は、覚悟を決めた声だった。
 太郎くんは、唇を噛み締めうなずいた。
「うん」
 面会時間が過ぎていたけど私が面会の許可を出した。
 千春さんが、「私が車を出すよ」と言うと太郎君は小さな声で「お願いします」といった。
 そして、太郎君と千春さんは萌ちゃんの子どもたちを迎えに行くために病室を出た。
「銘ちゃん。
 色々迷惑をかけてごめんね」
 萌ちゃんが弱々しい声でそう言った。
「迷惑とか思ってないから!
 ってか、本気でそんなこと言ってるのなら怒るわよ!」
 銘さんがそういって泣きそうな顔になった。
 萌は、小さく笑うと「ありがとう」と言ってくれた。
 それから暫くすると瓜君と桃ちゃんが病室にやってくる。
 萌ちゃんは、瓜君と桃ちゃんの顔を交互に見る。
 そして、ゆっくりとうなずくと瓜君の目をしっかりした表情で見る。
「瓜。
 瓜は強い子だよね?
 だから、桃をいじめちゃダメだよ。
 強い子は弱い子を護るの……いい?」
 萌ちゃんがそう言うと瓜君は小さくうなずく。
「うん。
 僕、桃を護る!」
 萌は優しく微笑むと小指を出した。
「じゃ、指切りだ」
 瓜君は、弱々しく小指を出した。
「ゆびきりげんまん。
 嘘ついたらハリセンボンのーます。
 指きった」
 瓜君の目から涙があふれる。
 そして、涙が止まらなくなり萌の指から離れると部屋の隅で座り込むと声を出さずに涙を流した。
 萌は、桃ちゃんの方も見る。
「桃……
 桃には色々苦労をかけてしまうと思う。
 もうちょっと大きくなったら、いっぱい悩みが出来ると思う。
 その時は、銘ちゃんやちぃちゃんに相談してね。
 銘ちゃん、その時はよろしくお願いします」
 萌ちゃんが銘さんの方を見る。
 千春さんはうなずいた。
「任せて!
 初恋から結婚まで相談にのるから!」
 千春さんが、そう言うと萌はクスっと笑い「おねがいします」と言った。
「早く、お洗濯や料理を覚えてお父さんの力になってあげてね」
「うん」
 桃ちゃんは涙を流さずに、じっと萌ちゃんの話を真剣に聞いていた。
「じゃ、桃も指きり」
 萌ちゃんはそう言うと、小指を出した。
 桃ちゃんは静かに母の元に小指を近づけ、自分から歌を歌った。
「指きりげんまん
 嘘ついたらハリセンボンのーます
 指きった」
 桃ちゃんの指から萌はゆっくりと指を離し優しく笑う。
「瓜に桃!
 きちんと、お父さんの言うこと聞くのよ!」
 萌ちゃんがそういうと瓜君と桃ちゃんが涙声でうなずく。
「はい」
 ふたりが返事をしたのを確かめると萌ちゃんは静かに涙を流した。
 まだ幼い瓜君と桃ちゃんが、どこまで事情を理解できているかは私にはわからない。
 だけど、ふたりとも萌の話を真剣に聞いていた。
 よく、子どもには人の死の現場を見せるのはよくないという人がいる。
 でも、それ決して悪いものだけではないのではないかと思った。
 確かに元気だった母親の姿を知る子どもたちに、その母親の死の瞬間の姿を見せるのはきつくつらいかも知れない。
 だけど、瓜君や桃ちゃんがやがて大人になったとき、母親の最後の姿を見れなかったことに後悔しないだろうか?
 血の分けた親子なんだ。
 子どもだって親の温もりを……
 そして、暖かい肉声を……
 最後の最後まで聞く権利くらいはあるはずなんだ。
 そして、子は命の大事さを学んでいくのではないだろうか?
 こう言う経験を得る事に娘は母親の温もりと強さを息子には母親の優しさと厳しさを…… 
 学んでいくものではないだろうか?
 私は、そう思えて仕方がなかった。
 そして、一日が終わった。
 その部屋には、私と太郎くんがその部屋にいる。
 そして、そこに静かに横たわる萌ちゃん。
 私たちは、静かに萌を看ていた。
 泣きつかれた子どもたちは別の部屋で眠っている。
 萌が暑がったため、屋の空調は18℃を下回っていた。
 子どもたちが風邪をひいてはダメなため違う部屋にいるのだ。
 その場にいる私たちは、上着を羽織るくらい寒かった。
 部屋をノックする音が聞こえる。
 太郎くんが「どうぞ」と言うと扉が開いた。
 扉の向こうには千春さんがティーカップとポットを持ってやってきた。
「これ飲んであったまろー」
 千春さんは、そう言ってカップにホットミルクを入れてくれた。
 部屋にホットミルクの香りが充満した。
「あー
 いい匂い」
 思わぬ場所から声が聞こえてきたので驚いた。
 それは、もう目を覚まさないと思っていた萌ちゃんが優しく呟いたものだった。
「私は、冷たいいちごミルクがいいな」
 萌ちゃんが、そう言うと銘さんが「じゃ、私が買ってくるよ」と言って部屋を出た。
 千春さんが萌のベッドを少し傾けた。
 銘さんが戻ってくると私たちは、小さな小さなミルクパーティーを開いた。
 そこにいる人たちはみんな小学校のころからの親友だった。
 話の種は、いっぱいあった。
 1時間くらいたったころだろうか?
 萌ちゃんが眠そうな声でこう言った。
「なんだか、眠くなってきちゃった」
 萌ちゃんがそういうと、静かにゆっくりと眠りについた。
 血圧は45を切り、脈拍も少しずつ減ってきた。
 午前10時48分
 彼女はゆっくりと空気を吸い込んだあと静かに息を吐きだし、そして息を引き取った。
 享年36歳。
 私たちと同じ歳だった。
 銘さんが目で「臨終だよ」と私に伝えてくれた。
 だけど私にはそれができなかった。
 今だけは、今日だけは萌の担当医ではなく萌ちゃんの親友としてその場にいたかったから……
 私は医者失格なのかもしれない。
 でも僕は医者なんだ。
 だから萌ちゃんの脈を計り静かに臨場を伝えた。
 皆、無言の中。
 蝉の鳴き声が小さく聞こえる。
 萌ちゃんは僕にとって初恋の人だった。
 切ない切ない失恋を迎えた。

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