他人から(子供含む)のささやかなプレゼント

記事
コラム
自分の子供からの会話のターンをうまく受け取れない自分に気づいた。
私は母親にプレゼントを受け取ってもらえなかったという気持ちがある。
それは物質的にも精神的にも。物質的なプレゼントを支える精神的なプレゼントというべきかな。

日常からはじまり、もちろん母の日とかそういうたぐいも。
母はいつも理屈をかねて返す。こちらの気分を害する。こちらのあったかい気持ちもあげなきゃよかったと思わせる。態度も言葉も。
今私が誰かに「あげても無駄でしょ」って思うところがあるのはそこから来てるのかも。自分を無駄にしたくない、浪費したくない、どうせ受け取ってもらえないから。

母はいつだって自分が主役。プレゼントをあげるとき、実はあげる側が主役。もらう側は脇役、リアクション側。リアクションに自由はない・・はず。喜ぶのが当たり前・・と子供の私はおもいきや、母はいつも不満をこねた。

母が主役の立場に戻すのだ。そういうことを繰り返しているうち、私は母に、いや人間に何かをあげるのがばからしくなった。言葉一つにしても。私の大事な大事なエネルギーが拾ってもらえない。捨てられる。投げ捨てられる。地面に落とされる。

そんな光景を何度も心でイメージしてきた私は誰にもあげたくない。あげたときリアクションとってくれないでしょ。不愛想でしょ。喜んだリアクションをオーバーにとってくれないならあげる意味がない。わりにあわない。理由がない。私を大切にしたい。もう無駄使いしたくない。

子供の小さな言葉や思いのこちらへのエネルギーはちしゅつでわかりづらい。大人のほうがよっぽど器用だ。だから直したくもなるし、答えを教えたくもなる。だけど、だけど、受け取ってあげたいのだ。どうやったら受け取ってあげられるのだろう。難しい。明らかにちしゅつなのだ。

だれだって幼いときはうまくできない。だけど必ず大人になったらうまくなる。
だから、だから、その思いを受け取ってあげたいのだ。あのとき受け取ってほしかったあの気持ちを。うまくないかもしれない。それでも一生懸命そこには心がある。

正しさなんて関係ない。そこにいる人が楽しければいい。自分のほうが答えを知っていたっていい。いつかその人がその答えに気づくかは、来世かもしれない。それでもその人の今の気持ちが満たされるなら、それが正しくなくても、多少の間違いだってそんなのいつかは気づく。今楽しいって気持ちがすごく大切。それが自分を愛する気持ちになるし、生きる力になる。

生きる力のあとに正確性や考える力がある。
だから、だから、私は子供をジャッジせずに「そうだね-!」って言えるひとになりたい。だって私は大人なんだから、子供より30年も長く生きてるんだから、子供の知らない正解を知っていて当たり前。それを今子供に教える必要はないし、教えるのは私の自己満足。今のこの子供が知っていることで十分喜ぶ必要があるし、満足する必要がある。


子供の言うことに全部「イエス」て言ったらめちゃくちゃわがままな子になりそうな気がする。だけどよく見る著名人の多くに母親から「否定されたことがない」「やりたいことを止められたことがない」とかそういう人が多い。
つまりイエスと言ってもわがままな子になるどころか、いい子になるのだ。
生きやすくなるのだ。のびのびと将来生きられるのだ。

それをなんとなくわかっていながら、「これはこうだ」って言ってしまうのは、大きくなってわがままになったとき、責められたくないから。私は注意しましたよ、この子が悪いんですよって言うため。自分のため。自分の恐怖と向き合えないため。

子供の言うことをまるごと受け止めてイエスという勇気。
そういう人間として生きていく決断。
もしその決断をしても私に怖いことは何も起こらない。いつもと同じ日常がはじまるだけ。



それが私の満足であり、器量であり、人間としてのやさしさであり、大人の役目。親の役目。先に進んでいる人の役目。

あー子供のときの気持ち消化しよ。まなびまなび

あんがと


おくちゃんへの依頼はこちら






サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す