本書は以前「人生のガイドブック」というタイトルで2,014年にキンドル販売されていましたが、現在に合わせて編集、加筆をして新タイトルとなりました。タイトルが変わると同一本とみなされないので新規の発行となります、ご購入の際は注意してください。
本書の価格に驚かれたことでしょう、お察しの通り簡単に買わせないようにです。
本書は読み放題や0円で読まれては台無しだからです、面白半分で読まれたくないのです、勿論一冊も売れなくて構いません、私は困りません、要するに売るための本では無いのです。
ちなみに、本書の文字数は34,000字ですが、私が40日間の断食ほか様々な修行のうえ得た悟りが記してある貴重な書物です、価格と文字数が合わないなどと思う方は絶対に読まないで下さい。
ある金持ちがイエスに聞きます「天国に行くにはどうすれば良いですか?」するとイエスが答えます「汝の持てるもの全て捨てて我に従え」(あなたの富、家、家族、全てから解放され私と一緒に来なさい)するとその金持ちは「それはとても無理です」と悲しそうに去りました。
その時イエスが言います「金持ちの天に入るはラクダが針の穴を通るがごとし」(富めるものが真理を得るのは現実的に不可能である)もしあなたが末期癌で余命を宣告された金持ちなら、「ちょっと高いけどこれぐらいなら」などとは絶対に考えず全財産を叩いて購入したつもりで読んでください。
以下は以前の紹介文そのままです。
この世界を解き明かした「人生のガイドブック」哲学書です。本書の内容は真理です、真理とは暇つぶしや興味本位で手にする物ではありません。本当に必要とする人のためのものです。対象者は不治の病で余命を言われた人、自殺を考えている人、人生に苦しんでいる人、天にすがる思いで本当に真理を知りたい人達です。
この本は売る目的の物ではありません、どうぞご理解いただき人生にお困りで無ければ買わないで下さい。「そんなこと言われたら逆に・・・」と言う方は、・・・仕方ありません、何か大きな夢、目標を持ってください、そして「人生の成功をこの本が叶えてくれる」と信じて読んでください。
聖書に書いてあることも信じない人が読めば「猫に小判」です。「求めよさらば与えられん」です。真理と言うものは求める心で読まなければ貴方の脳を素通りし、いざ、必要となった時「そういえば」と改めて読んでも「目からうろこが落ちる」様な感動が薄れるのです。ご理解いただけましたら今一度冷静にお考えください。
真理
この世界はあなたのモノです。・・・が、・・・
癌、借金、いじめ・・・死ぬ前に読む本!
あなたの生命を眩しく光り輝かせるための本です。
仕組みが解れば当然、思い通りの人生を楽しむ事が出来ます。
この世界には金属の塊である飛行機が空を飛ぶ「流体力学」と言う「法則」が在ります。
同様に、人間が「幸福」な人生を送る為の「幸せの法則」も、ちゃんと存在するのです。
高松海斗
はじめに
人生のガイドブックと言うと「宗教」を思い浮かべる方が多いと思いますが、本書は「宗教本」ではありません。・・「哲学書」と理解して下されば、違和感なく読み進めていただけるかと思います。
毎年、日本では3万人の自殺者がいます。交通事故での死亡者が6千人ですから、ゆうに5倍です。
本書はこの「人生を悲観して挫折し、最悪の結末を選択してしまう方々」は勿論「不治の病で余命を言い渡された方」そして「本当にこの世とは人間とは何なのかを知りたい方」のために書きました。
本書は哲学書ですので、内容を証明する様な物理的な証拠はありません。
読者が本書の内容を実践して、真理を実感していただくのが唯一の証明です。
したがいまして、普通以上に人生を過ごしている幸福な方が読まれても「こうゆう考え方もあるのか」となるだけでしょう。
本書の内容は「真理」です。
本当に必要としている方が「その時」に読むことが肝心なのです。
真理とは求める心で読まなければ本当に自分のものにはなりません。
聖書に書いてあることも信じない者が読めば「猫に小判」です、「ハリーポッター」と同じなのです「求めよ、さらば与えられん」です。
真理と言うものは求める心で読まなければ貴方の脳を素通りし、いざ、必要となった時「そういえば」と改めて読んでみても「目からうろこが落ちる」様な感動が薄れるのです。
なにぶん、執筆は初心者な上、プロの手を入れておりませんため、読みにくい文章が、多くあるかと思いますが、ご容赦下さい。
目次
第1章 「 経 緯 」
第2章 「 創 造 主 」
第3章 「 物 質 」
第4章 「 奇跡の惑星 」
第5章 「 無 」
第6章 「 人 間 」
第7章 「 攻 略 」
第8章 「 達 人 」
第9章 「 実 践 」
第10章 「 付 録 」
あとがき
第1章 「 経 緯 」
では何故、私が真理を知ることになったのか、・・・何故、本書を書くことにしたのかを少し書かせていただきます。
今から約50年前です、あと数ヶ月で5歳になる私に興奮した父が「ほら見てみろ、人類が飛行機を発明して100年、今、とうとう月に行ったのだぞ。」と言いました。
そうです、その時、家族全員で「アポロ11号」の月面着陸のテレビ中継を見ていたのです、・・しかし、嬉しそうに興奮する父とは裏腹に、私が感じていたのは絶望感でした。
「100年もかかって直ぐそこにある月って、・・・じゃあ自分が生きている内に何億光年もある宇宙の果てを知るのは無理だな。・・・」と思っていたのを覚えています。
宇宙船に乗り宇宙から地球を見れば「地球は丸い」と解るように、この宇宙全体を把握出来ればこの世が何か、人間とは何なのかが解ると思っていたのです。・・・はい、変な4歳児だったのです。
そんな「やから」ですから当然、哲学にのめりこみました。
歴史、宗教、心理学、催眠術、暗示、物理化学、生物科学、統計学、考古学、等々、人間とは何なのか、人生とは、この世界は何なのかに付いてずっと考えていました。
ちなみに、「哲学」とは「あらゆる学問を駆使し、己を知る」・・・言わば宗教を含む全ての学問の集大成であります。
「この世を理論的に解き明かす学問」であります。
今はまだ、あの世のことは完全には解りませんが、この世のことは大まか解き明かしたので、人生に行き詰まり自殺を選択する人が1人でも考え直していただければと、本書を書くことにいたしました。
なぜなら、この世、・・・この「三次元時空間」を創った者が、神が、自然が、創造主が、・・・呼称はどうであれ、きっと人間が自殺してしまうことが「一番悲しいこと」だと感じているに違いないと思うからです。
勿論、私自身も悲しいからです。
ちなみに、本書では「創造主」と現段階で呼称することといたします。
第2章 「 創 造 主 」
さて、本題に入る前に重要なことがあります、それは「創造主」の定義です。・・創造主は1人なのか2人なのか、それとも複数なのか、・・・そもそも存在するのかしないのか、いろんな考えが在ると思います。
ではまず、存在の有無を考えてみましょう。
水を例にして考えて見ます、水は「H2O」で表します。
H、は水素原子で、O、は酸素原子です。よって「水」とは、水素原子が2個と酸素原子が1個で分子を構成する液体物質である、ということになります。
さて、それでは何故人類はこのことを知ったのでしょうか、・・・「顕微鏡で」・・・そんなことを言っているのではありません。
答えは、そうゆう「決まり」が在ったから知ることが出来たのです。
更に言うならば人類は「原子核の周りに1個の電子を伴っている原子が水の元である」と言う「法則」を知り、その原子に「水素」と命名したに過ぎないのです、要するに呼び方を決めただけです。
つまり人類はこの世界に元々存在していた「物質の法則」に基づく「水の構造」と言う「決り」を「解明」しただけなのです。
その決まりは人間が作った決まりでは無いのです、すでに在ったのです。
すなわち、この「決まり」を創った者を人類は「神」と呼び「自然」と呼び「創造主」と呼ぶのです。
決まり、ルール、秩序、法則、これらは全て知恵が作るものであります、無から自然と発生する様なものではありません。
「神も自然からできた(生まれた)」と思っている方、・・・理解力0ですね、・・・その自然を作ったもの、法則、決まり、を「神」と定義しているのです、・・現段階では「創造主」ですけど。
要するに、この世界のあらゆる法則「引力、重力、流体力学、フレミングの左手の法則、等々」の元となった「知恵」の存在を無視して哲学は語れません。
「ある日突然、決まりが出来た」・・・この文章を読んで違和感を持たない人は猿と同等です。
侮辱しているのではなく野生動物のようにこの世界を悠々と生きている人であります。
そうゆう方に真理は必要ないでしょう。
続きまして、創造主が単一かどうかですが、これは間違いなく単一となります。
なぜなら、本書はこの世界が何のために存在し、人生の目的とは何かを探るための哲学書ですので、この世界を創った大工さんが何人いようと、どうでもいいのです、この世界を創ろうと決心されたオーナーの意図が知りたいのです。
何かが作られるとき必ずオーナーは一人です、その作られるものの理念を想像するのは一人しかありえないのです。
その後の設計に何人加わろうと、それは「製作作業をした人」にしか過ぎないのです。
例えば、ここに「スーパーカブ」と言う50ccのバイクが有ります。
このバイクの理念は「燃費の良い経済的なバイク」であり、この理念を想像したオーナーは、本田総一郎氏であり実際に制作して世に出したのは本田技研の社員達です。
この世の創造主、強いて言うなら「この世の想像主は単一である」です。
ちなみに、多神教と言われる日本神道でも実は、この世界の創造神は「天照大神」であります、・・ただの太陽神ではありません、太陽神とはたんなる象徴としているだけです。・・ですから正確に言うと日本神道は「一神教」の「多神教」です。
よく、「この世は、陰と陽で成り立っている」とか言いますが、陰が女で陽が男と考える人もいるでしょうが、合気道や茶道などでは右手が陰で左手が陽としているのです。
例えば、一人の創造主が手をたたき「ビックバン」が起きたという解釈も出来ます、・・要するに陰陽とは両手の関係ということです。
この世界は神と悪魔がせめぎ合う世界だと思っている方も多いと思いますが、あり得ません。・・・なぜなら正反対の合い入れない者が共同でものを作ることは不可能だからです、協力できるなら合い入れない者同士ではないのです。
キリスト教でも悪魔のボスは堕天使であり、元は神の創造物である天使なのです。(ルシファー)
したがって、本書では「創造主は単一である」と定義いたします。
第3章 「 物 質 」
「マクロが駄目ならミクロから」ということで、宇宙全体の把握が不可能であるならば、肉体や物体の構成要素である物質を調べることにいたします。
仏教では「物質は無い、この世は幻である」と説かれています。
日本神道では全ての物は「神の現われ」である、ゆえに「八百万の神」が在り「山の神、海の神」更には「便所の神」や茶碗や箸にも神が宿る、とされ、割れた茶碗や折れた箸を、きちんと供養してから処分していたのです。
これは、どちらが正しいのか考えるのではなく、正しい宗教ならばどちらも言っていることは同じであると解釈するべきです。
すると、こうなります。
「この世は幻である」と「この世は神の現れである」が同じとすると、「この世は神の現れを映す幻である」と言うことであります。
仏教が正しいかの定義は、一応「世界三大宗教」の一つですから否定する理由は無いでしょう。
日本神道は、その「世界三大宗教」よりも長い歴史があります、皇紀で考えたとしても今年で、2681年ですか。
更には、200年程前、江戸は当時、世界最大の大都市であり70万人が暮らしていて、なんと、その江戸の治安を守っていたのは、たった12人の「同心」(現在の警察官)でした。
現在、世界一治安の良い大都市、東京の人口が1300万人に対して警察官が4万人ですから当時の日本人の道徳心の高さは半端じゃないのです。・・・こんなにすごい国の宗教が偽物のはずがないのは火を見るより明らかです。
さらに化学的に検証します。
人体の構成物質は70%以上が水分で残りほとんどが炭素です。
物質を細かく見ていくと先ほどの「水の分子」となり更には「水素と酸素の原子」となります。
化学の教科書には、丸い玉に棒を付けて物質の分子構造を解りやすく描いていますが、実際には棒などは有りませんし原子自体も丸い玉というわけではありません。
さて、ここにコカコーラが有ります、蓋を開けて丸1日放置すると当然、炭酸が抜けてしまいます。
ですがコカコーラ自体の量は減っていません。
これは水の分子同士の間に一定の隙間が存在し、2酸化炭素がその隙間に溶け込んでいたためです。
勿論隙間を作るための棒などは有りません、この磁石の同局が反発する様に物質の分子と分子を反発させている力が何なのかは解っていません。
では、この隙間がどの位の広さかと言うと1つの分子の1500倍です。
例えますと、体育館の中央にピンポン玉を1つ置き、それを水の1つの分子とすると、その隣の分子は約50メートル離れて・・・体育館の外です。
と言うことは、これはとんでもない矛盾が生じます。
それは、まず全ての物体には同程度の隙間が存在するのに、私たちの目にはそんな隙間は微塵も感じず、むしろ「くっきり」と存在感を現して見えております。
本来なら1500:1の割合の物を見たならば、例えばそれが人体だとすると幽霊のように透き通り、半透明に見えるのが常識であります。
この事実を理論的に解決するには、次の3つが考えられます。
1. 物質自体が何かオーラの様な波動を発し、光の反射を操作している。
2. 光自体がそもそも真実を映し出すものでは無い。
3. 私達の目が、脳が、心が、例えば「人体はこうゆう物である」と映像を編集して認識させている。
ここで犯人探しをするのは哲学に関係ないので、結論に進みます。
今、はっきりしている事は、「私達が見ているこの世界は真実の姿ではない」と言うことだけは確かなことなのです。
と言う事は、「この世は神の現れを映す幻である」は、かなり信憑性が増してきました。・・「幻である」は、ほとんど定義された様なものですが、後は「神の現われ」が、本当かどうかですね。
創造主が「真実の姿ではない映像を私達に見せている」わけですが、その方法自体は化学や他の学問に任せまして、哲学は「創造主が何故そんな事をするのか?」を探るのです。
真実と違う映像を見せる・・・何故?・・・真実を見られたくないから?・・・ならば見えなくすればいい、元々幽霊のように薄いのだから・・・わざわざ大変な思いをして編集してから見せる必要はない。
・・・幽霊のように透き通り、はっきりしないものを編集して「くっきり」、「はっきり」見せてくれれば私達としては、ありがたい事ですけど・・・
この世界の「自然」が作り出した最高傑作と言えば、やはり「人体」でしょう。・・あなたの憧れの容姿を持つ美しい人を思い浮かべてください、・・・浮かびましたか?・・・
それでは次に、その人の皮膚を剥ぎ取ってください、・・・学校の理科室にある人体模型になりましたね。・・・
自然は何故、醜い人体に美しい皮膚を着せたのか?
人間の行動で考えると、女性が化粧をするのは他人に美しく見られたいからです。・・・何故?
他人から好感を持たれたいからです。・・・と言う事は人間とは「醜いものよりも美しいものが好き」な生物となります。
「好き」と「喜び」は同意ですから「女性は他人に喜んでもらうために化粧をする」とする事が出来ます。
自然は何故、醜い人体を隠したいのか?・・・人間を不快にさせないため。
何故、美しい皮膚を見せたいのか?・・・人間が美しいものが好きだから。
好きなものを見せたい?・・・何故?・・・「人間が喜ぶから」・・・と言う事は・・・「自然は人間を喜ばせたいから、醜い人体に美しい皮膚を着せた」とする事が出来ます。
「自然」とは、「創造主」のことですから、「創造主がこの世界の物質の隙間だらけの向こうが透けて見えるような真実の姿を、くっきりとはっきりと綺麗に編集してから人間に見せるのは、人間を喜ばせたいからである。」・・・と言う事になります。
では何故、創造主.は人間を喜ばせたいのでしょうか?・・・
私たち人間が喜ばせたいと思う相手と言えば・・・「好きな人」、「愛している人」、「お客様」くらいでしょうか?・・・創造主は人間からの見返りは求めないでしょうから、「お客様」と「好きな人」が消えます、・・・残る「愛している人」で見返りを求めないとなると「親子、兄弟」・・・一番しっくりくるのは「人間は創造主の子供」・・・別の言い方で「人間神の子」・・・
第4章 「 奇跡の惑星 」
近年、天文学も大分進歩している様ですが、いまだに地球の様な、生物が生存出来る天体は発見されておりません。
では生物が生きられる星とはどうゆう星なのでしょう。
まずは大気をつなぎとめておける質量があること、・・・最低でも、だいたい「火星」以上は必要でしょうか。
そして、なんと言っても水が液体として存在していられる温度です。
地球の海面付近の気圧で摂氏1度から99度までですが、水性生物が生きられる環境となると、せいぜい上限は30度まででしょう。
もう少し、温度について考えて見ましょう。
熱が存在しない「絶対零度」が摂氏マイナス273度です。
上限は・・・1万度、2万度・・・10万度、上限には限りがありません。
太陽の表面温度は、約7000度です。・・・どんなものかと言うと、人体ならほんの数秒で蒸発、ガスになるでしょう。・・・骨も、です。
摂氏マイナス273度から、太陽の7000度までとしても私たちが生きられるのは、ほんの1度から30度の間なのです。・・・テレビの周波数で考えるなら、ほんの1チャンネル分です。
これを少なくとも生物大発生の5億6千万年前から維持しているのです。・・・奇跡というよりも、もはや神業です。・・直径100メートルの隕石が衝突すれば、地球上の生物は全滅すると言われています。
絶対に無いとは言い切れません、・・・東日本大震災は起きました。・・・
私たちが創造主の子供だとするならば、創造主は何故こんな理不尽な災害死を放置しているのでしょうか?・・・大戦争にしても、何故なにもしてくれないのでしょうか?・・・自分の可愛い子供達が大勢死ぬのですよ、・・・何故、黙って見ているだけなのでしょうか?
答えは、・・・やはり前章とかぶるのですが、この世が幻だからではないでしょうか。
私達の本体は創造主と共に「実相界」に在り、この世は地球と言う「3D受像機」により、温度の周波数を「生物生存」のチャンネルに合わせているに過ぎないとしたら、・・・戦争も本当は、「超リアル3D映画」に過ぎないとしたら、・・・神が助けてくれないことの説明が付きます。・・・
話が、かなり宗教がかってきたって?・・・
まあ宗教と哲学は紙一重ですから当然と言えば当然のことと言えます。
それに、宗教が説いている事を分析、解釈して、信憑性を立証するのも立派な哲学の役割です。
第5章 「 無 」
この世界では「大切なものほど目には映らない」と言われています。
人間が生きるのに必要となる大切な物と言えば、当然食べ物です。
遭難して水だけで生き続け、3週間後に生還した記録があります。
震災などで瓦礫の下敷きになり、飲まず食わずで、3日間、・・・空気が無ければ3分でしょう。
よって「大切なものほど目には映らない」は「真実」として成り立ちます。
ここに野球のボールを時速100kmで投げる人がいます。
その人が時速100kmで走行する車に乗り進行方向にボールを投げると、そのボールの速度は当然、時速200kmとなります。
空気抵抗は考えないことにします。・・・これは、野球のボールが物体だからです。
次にその車がクラクションを鳴らした場合、停車時と走行時で音速に変化はありません。・・これは音が物体ではなく物質(空気)の振動で伝わる波だからです。・・遠ざかる救急車のサイレンが間延びして聞こえるのもそのためです。(ドップラー効果)
更にこの車が走行時と停車時にそれぞれライトを点灯した時、光の速度に走行時の車の時速100kmはプラスされません。
と言うことは光も音と同様で物質を伝わる波であると言うことです。
しかし、これは大問題です、・・・宇宙空間は真空のはずです、何故「波」である太陽光が地球に届くのでしょうか?ましてや何万光年も離れた光星の光が見えるのでしょうか?・・・
さすがの物理学会もこの事実には次の様な説明をせざるを得ませんでした。
「この世界には如何なる計測器を駆使しても、その存在を確認する事の出来ない『未知の物質』が充満している」として、その物質を「エーテル体」と名づけました。・・・
本当の話ですよ、・・・「この世は無である」どころか逆に「この世には無は無い」と言っているのですよ。・・・「この世界の隅々まで、エーテル体で満ちている」と言っているのですよ。
「大切なものほど目には映らない」・・・「エーテル体」は目に映らないどころか存在を確認する術が無いのにもかかわらず、確かに存在しているのです・・・むしろ、この世界の、・・・この広大な宇宙空間は「エーテル体」で出来ている、と言っても過言ではないのです。
どうやら「この世の鍵」は「エーテル体」にありそうですね。・・・
この事実を知って何か感じませんか?・・・今までは先ず宇宙空間が在り創造主が様々な星々をちりばめたかの様に感じていましたが、・・・実はそうではなく、真空を含む全宇宙空間すべてが創造主の創造物であり、我々人間もその一部でしかないと。・・・
では、もう少し解り易く例えましょう。
ここにまだ何も書き込まれていない新品の大容量ハードディスクが有ります、そこに先ず太陽のプログラムを書き込みます、次に地球のプログラムを書き込みます、更にその地球上に人間をプログラムで書き込みます、プログラムの人間は地球と太陽の間は真空だと思います、無だと思います、ハードディスクの何も書き込まれていない部分を認識することは出来ません。・・・
もうピンと来たのではありませんか?・・・そうですこの世界は、この宇宙は、どんなに広くても無限の広さだとしても「神のハードディスク」なのです。
そしてこの地球は神の「3Dバーチャルランド」なる、アトラクション、テーマパークなのです、体感型人生劇場なのです。
この世界に存在するものは全て、「神のハードディスク」なる「エーテル体」に書き込まれた「プログラム」に過ぎないのです。・・・勿論、私たち人間も同様です。
ここからはもう創造主ではなく「神」でいいでしょう。
孫悟空の話
孫悟空がお釈迦様から逃げるため「きんとん雲」に乗り世界の果てまで来ると、そこに5本の石柱から成る長椅子の様な岩が有りました。・・孫悟空がその岩に腰掛けて休憩していると、実はその岩はお釈迦様の手だったのです。
再び逃げ出し、今度は反対側の世界の果てまで来ました。
するとそこに布団の様な雲が有りました、疲れた悟空がその雲に寝ていると、その雲は実はお釈迦様の掌でした。
更に逃げようとする悟空にお釈迦様が言いました。
「孫悟空よ、あなたはまだ自分が何処に居るのか解らないのですか、この世界は私そのもの、あなたは私の中に居るのですよ」・・・
この話、本当だった様ですね、・・・えっ、違う?・・・信じない?・・・良いですよ、良いですけど、ではあなたはこの世が何なのか明確な考えがありますか?・・・ここまで読んできて何か矛盾がありましたか?・・・
人生とは、考えながら生きるものです、哲学しながら生きるものです、哲学せずに、何も考えずに生きる人間は動物以下です、・・ただのうんこ製造器です。
なぜなら動物は病気になりません、なるのは檻に入れられたものか、人間に飼われたもの、あるいは人間の撒き散らした化学物質によるものです。
あなたが野生動物の様に無心で人生を生きるなら、病無し、悩み無し、苦しみ無し、なのです。
しかし動物のように哲学をせずに、宗教も無視し、人の文明社会に生きる時、それらの問題が蛇頭のごとくあなたの前に現れるのです、鎌首をもたげるのです。
第6章 「 人 間 」
それでは神は何のために、この世界を創ったのでしょう。
その答えは、まず人間を定義しないと始まらないと思いますので、人間とは何か考えて見ましょう。
旧約聖書やギリシャ神話に「神は自分に似せて人間を造った」とあります。
検証してみましょう、「神」の元から来たばかりの赤ん坊は誰にも教わっていないのに、実に上手に母乳を飲みます。・・あなたが子育ての経験がある女性ならきっとその時「神」の存在を確信したことでしょう。
幼稚園の園児たちに粘土細工をさせると、ほとんどの子が人形を作ります。
まだ半分本能で行動している様な幼児たちが自分たちに似せて、・・です。
本能とは野生であり、野生とは自然であり、自然とは創造主であり、いわゆる「神」です。
今現在、人類よりも進化した生物が確認されていない以上「神は自分に似せて人間を造った」は「真実」として定義しても差し支えないでしょう。
とすると神と人とでは、やることは雲泥の差ですが考えることは、さほど変わらないと言うことになります。・・・したがって人間が創ったインターネットのオンラインゲームの様に、バーチャル体験を目的に、神が、この世界を創ったと考えるのが妥当でしょう。
問題はその目的です、ほとんど全ての宗教では「この世は修行の場である」と言っています。
本当でしょうか?・・・修行とは「悟り」を開く目的で行うことです。
世界三大宗教が発足して大体2000年経ちましたが、人生が修行であるなら世界中を見てみても、あまりにも修行をしている人が少なすぎます、とても修行目的に創った世界とは思えません。
もしそれが事実なら、申し訳ありませんがこの世は「神の失敗作」と言わざるをえません。・・といっても「神は完全」ですから失敗はしません、・・・仮に失敗だとしても2000年もの間、修正しないのはおかしな話です。
したがって「この世は修行の場である」と言うのは「真理」ではない。と定義します。
勿論、修行を目的としている人が居るのも事実ですので、否定しているのではなく、「修行だけが目的ではない」と言う意味で理解してください。
すると自動的に考えられるのは、人間がオンラインゲームを作ったのと同じ理由でしょう、・・・
それは勿論「楽しむ」ためです。
人間がバーチャル空間を楽しむためにオンラインゲームを作ったように、神が「超リアル3Dバーチャル空間」を楽しむために、この世界を創ったのです。
えっ、ネットゲームは楽しむためかって?・・・勿論です、楽しくなければ人が集まりません、お金を払って貰えません。
人間が喜ぶようにこの世界を編集して美しく見せている以上、この世界を人間が苦しむために創ったはずは無いのです。
修行でもなければ、あと残るは・・・「楽しむため」しかありえません。
ネットゲームは、人間が人間のために造りました。・・・ではこの世界は、神が人間のために?・・・何故?・・・人間と神との関係とは・・・「神は自分に似せて人間を造った」・・・人間は神の人形・・・
人間がネットゲームを楽しむ為には「アバター」というものが必要です、ネットゲームの中の自分、仮想空間、仮想世界の中での自分自身です。・・・と言う事は、・・・
それでは、はっきり言いましょう。・・・あなたはこの「超リアル3Dバーチャルランド」を楽しんでプレイしている「神様」なのです。
そしてあなたの肉体は、そのための「アバター」なのです。・・・びっくりしましたか?・・・でも「真実」です。
現在、人間がコンピューターゲームの「仮想空間」を楽しむには、まだコントローラーが必要ですが、各ゲーム機の会社は競って「ヘッドギア」などの直接脳波で操作する方法を研究しています。
その内、映画の「マトリックス」の様な事も可能になるかもしれませんね。
要するに、「この世界」は、神が創った「超リアル3D仮想空間」なのです。
言うなれば「神のマトリックス」なのです。
「この世は神が楽しむために創った」
それではいくつか裏付けとなりそうな例を挙げてみましょう。
昆虫に桁違いの種類の多さが存在するのはファーブルさんを楽しませるためであります。
つまり昆虫マニアが昆虫採取コレクションを楽しむためであります。
魚もしかりです、魚の種類が多いのも「さかなくん」や魚マニアの楽しみのためであります。・・・
え、医薬品開発のため?・・・そもそも楽しむために創った世界に病気なんて在る訳ないでしょう。・・・食べるため?・・・う~ん、食べることを楽しむ神もいるかもしれませんが度が過ぎると餓鬼道に落ちて、来世は豚になりますよ、気をつけてください。
桜などは正に、神々、人々、を楽しませるためだけに存在する最たるものです。
生存、子孫繁栄を考えれば、たった1週間の間に一斉に満開にして、あっという間に散ってしまうなど、言語道断、ありえません。
どう考えても「見るもののため」だけに咲いているとしか思えません。
決定的な事例があります、イエスと釈迦の違いを考えて見ましょう。
イエスは、聖母マリアが処女のまま妊娠し、生まれました。そしてそのまま神として生き、真理を説き、人々を救いました。(聖書によると30歳から「しるし」を現された様ですが、幼少から間違いなく「神童」であらせられました、12歳の時、神殿を「私の父の家」と仰っています)
一方、釈迦はインドの地方豪族の王子として生まれ、35歳のとき、醜く老いて死んで行く人間の儚さに無常を感じ、修行を経て悟りを開きました。
イエスの場合は、当時のユダヤの人々のために「救世主」としてイエスが降臨しました。
要するに最初から「神」として、この世に来たのです。
では、釈迦は何故、この世に居たのでしょうか?・・・
この世が修行の場なら、釈迦ほどの高級霊は生まれて来る必要は無いはずです。・・・これはどう考えても、お釈迦様が、この世界を楽しんでいたところ、アバターが修行をしてしまい、「悟ってしまった」と言うのが一番しっくり来る説明であります。
救済を目的として来たのなら35年も無駄にせず、イエスのように最初から仏陀として生まれて来ればいいのです。
高級霊が憑依したのではないかって?・・・せいぜい2~3日のことなら、考えられない事もないですが、この後50年以上ですよ・・・だいいち、そんなことが可能なら、イエスが、マリアに苦労をかけてまで生まれて来る必要はなかったと言うことになりますよ。・・・
処女のまま妊娠したなど誰が信じますか?・・マリアは一歩間違えば「石打の刑」に合っていたかもしれないのですよ。・・・
この世は神々たちが「楽しむ」ために創られました。
そうすると、この世は神々にとって何が楽しいのでしょう。(さかなくん、や、ファーブルさん以外の)・・・
この答えにぴったりの有名な言葉があります、それは・・「事実は小説よりも奇なり」です。・・解り易く言えば「人生は作り話よりも面白い」と言う事に尽きると思います。
あなたは映画を観ていて「私ならこうするのに」とか思ったことありませんか。
自分のお気に入りの映画の中に入れたら楽しいだろうなとか、考えた事ありませんか。・・・
小説を読んでいて「わあ、この場面、五官で体験してみたいな」なんて、ふと思ったことありませんか。
人気歌手のライブに行ってファンの心を一身に受けて輝きを放つ舞台上の歌姫を観ていて、ふと「私も歌手に成りたい」とか「この舞台に立ってみたい」と思った事ありませんか。
「楽しみ」はそうゆう事ばかりではありません。
「富士の御来光」を観るために昨晩から登山を始めた人と、時間を見計らってヘリコプターで山頂に来た人と、見る景色は同じですが感動は・・・御来光を観て自然に目から涙が溢れ出すのはどちらの人か。・・・
したがって、本書では「この世界は神が楽しむために創った」を真理とします。
まだ、しっくり来ない人のために最後にダメ押しで説明しましょう。
みなさん、今までに一度でもこの世界を創った方の気持ちを考えた事がありますか?・・・
考えて下さい。・・・
例えばあなたが料理人だとします。
食べ終わったお客様に呼び出されました。
次の内、なんと言われたいですか。
1. いやあ、噂通り美味しかったよ、ありがとう。
2. わざわざ遠くから来てこんな物を食わされるなら死んだほうがましだ。
3. とっても美味しかったわ、もう「生まれて来て良かった~」と思ったわよ。
勿論、最上級の3番でしょう、・・・神様も同じなのです、・・・「生まれて来てよかった」と言って欲しいのです。・・・
何をしていてもいいのです。・・・修行でも、スポーツでも、仕事でも、遊びでも、恋愛でも・・・「生まれて来てよかった」と感じてくれさえすれば、・・・それで創った甲斐があるのです。・・・
だから・・・死なないで下さい。・・・