この地は本当に....

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今日は夏日だそうですが、いい日差しです。
窓から、緑に覆われてすこし青みがかかった鞍馬山を眺めながら仕事をしています。

 実は3月ごろから、自分の仕事の合間に、京都の見えない世界の情報や研究成果を、陰陽師を描くことになったプロ漫画家の友人に提供しているのですが、根拠となる情報源をもとに、見えてくる自分の考察をまとめていくと、解明していくほどに、京都(山城国)というのはなんという国だったのか!と思うんです。

 やはりここでも、ありとあらゆる点と点がつながってくるんですよね。
 陰陽師たちが何を守ろうとしていたのか、陰陽師の背景にいたものはなんだったのか、彼らの正体は、とか、そういうことがおのずと見えてくるし、そもそも日本の国づくりに大きな影響を与えたユーラシア大陸にあった「唐」という国が、当時どんな国だったのか、に圧倒されるんですよね。

 インド、中東、遊牧社会と、中華、そして、京都。

全ては、思想において根っこがつながっています。逆にいうと、大陸の思想を通して京都を見てみないと、京都に現存するものは、今の日本人の思想解釈からはまったくわからないものがある。
 そして、現代の、資料だけの解釈本だけでは、京都にある多くのものの解釈のずれが時々発生していると感じられるんですよね。(※もちろん、正解は色々ある世界です。学問の世界ですからね。)

「けっこう好き勝手なこと言ってるよねぇ。」
「外から見るのと内からみるのとは物事、大違いなのに、外しか見ないで、学問するんだよ。」
と密教僧侶である男性教授も同じように、京都人らしく苦笑いながら、「かたちはかたちだから。そこにきづかないと。」とシンプルにおっしゃっていました。「私たちは、修行を通して形の意味や中身のほうを頭ではなく心で知るから、わかるんだ。」

先生が、形、と 意識、とおっしゃるのは、

この世の現象界であらわれているものは、全て二次的なものに過ぎず、その二時的な世界を動かしているのは、「意識」であるからなんです。
(もちろん、意識だけつかえばいいのではなく、そこには成立条件もあるわけですが。)

そして、密教は自分の本性・本体が「意図」して現象界を動かす実証により、精神世界と物質世界を含めたすべての宇宙観を統合する世界観を持った。

そして、それが京都に大きく影響していった。

 空海が天皇を実証によって納得させたこと、京都周辺の寺社が、空海や密教と関係する寺社が多いこともそれを物語っています。
 日本人とは元来、スピリチュアルな人たちだったんです。

現代人はどこをみているのか。
と問われれば、今の日本人は、だいたいが見える形であり、人が作った概念や枠組みといったヒエラルキー型損得や、思い込みであったりと、多くのひとは「これが現実」だとおもっている「現実感」にしがみつきます。

でも、それは、すべて集合意識によって作り出された幻想世界なんですよ。

古代の京都に暮らしていた人たちは、それを知っていたんです。
すべては、肉体の中の自分の思惑を超えた、宇宙的な意思によって統括されている世界があると考えていた。そして自分と宇宙は繋がっていた。

この世界は、自分の「こころ」いかんによって、見えるものが現れてくる。とも考えていた。

今、京都に残っている、観光で触れられるものは、全て歴史の残した枠組みであり、型の継承物でしかありません。しかし型を前にして、思案しながら、その型に沿えるこころが出来上がった時、形がようやく、自分の生き様にフィットしてきます。
 これが最適化された形態であったことが理解できます。

現代風にいうと、京都が残しているものというのは、ずっと息を潜めて、
日本人のこころが育つのをじっと待っているんです。

例えばなんですけど、ガンダムのモビルスーツでいいましょう。
ユニコーン・ガンダム。すごく好きな作品なんですけど、あれ、乗り手の意識が非常に大切ですよね。
モビルスーツ側は高性能すぎて、下手な乗り手に合わせてはくれないんです。
動きはするかもしれないけど、ちゃんと訓練されていないドライバーからすると制御が難しいモビルスーツ。

でも、主人公は、小さい頃から知らないうちにその乗り方を訓練されています。それが訓練だということも知らずに。
そして、自分がその乗り手にふさわしくなった時に、ユニコーン・ガンダムは意識の力を得て、超パワーを発揮するわけですね。
そして、そのひとに完全にフィットする。

このコンセプトと、おんなじなんですよ。
京都に残されているものは、古いガラクタではありません。
使い方を知り、その使い手としてふさわしい訓練がなされ、心が整った時には、息を吹き返し、自分達日本人に、フィットしてきます。
 日本を取り戻すとしたら、ひとりひとりが、そこに向けて、今、ガイドやマスターに育てられている真っ最中でしょう。

 このことをあらためて思ったのは、研究しながら、この京都全体になされている古代からの「仕掛け」に気がついたからです。もちろんマスターの手伝いがあってこそですけども、京都の見えない世界の仕掛けの全貌がみえてきた時には、もう圧倒されるしかありませんでした。
 あとは、フィールドワークのみなんですけど、いい季節になってきたので、暑くなりすぎないうちに、現地検証行ってきたいと思います。


 そして、もう一つ影響を与えた出来事は、最近、陰陽師ゼロ、見てきたんですよね。
 オンライン配信か、DVDになったらみればいいか、と考えてたら、映画館でしか迫力を楽しめないシーンがあるというので、期待しながら大きなスクリーンでみてきたんです。結果として、駄作もいいところ、という感想でした。

 サブカルチャーとはいえ、あまりにも平安時代を無視した設定、日本の精神性を無視した脚本で、正直、日本人も自国の歴史をいくらでも盛ってもいいと考える韓国人なみの意識になってきたんだなぁ、と、正直、末恐ろしく感じました。

そして、この映画から平安を連想する若い人たちが増えたら、もう日本はおしまいだ、と思いました。野村萬斎さんの時は、まだ映像モラルがあったんですよね。日本の歴史に対するリスペクトが感じられた。所作も美しかった。
京都も現実感があった。本物の建物を使っていたこともありますが、なにより晴明を演じた萬斎さんが、品性を保ちながら撃退する姿も含め、古典の所作や世界観をちゃんと理解していたからです。
 彼を通して、昭和の人間的には、平安っぽさをなんとなく感じられた。

でも、今回の陰陽師ゼロを見て、日本の時代劇を演じられるような若い俳優は、もう誰もいなくなったんだ、時代劇を手掛けられるひとも、もう、ほとんどいなくなったんだ、と思いました。

教授が言うように、いまの日本人は「形」だけみてるんですよね。
形だけをみて、らしき世界に満足する世界。
 韓国は、過酷な詰め込み教育・競争蹴落とし教育が加熱したため、そういう感覚世代が育つのが、日本よりちょっと早かっただけ。
 感性において共産党中国や韓国とそんなに変わらなくなっているかもしれないです。

AIやCGで、なんでも整形しちゃう時代に入った。
最新の偽物を目指す世界に、どんちゃん騒ぎなんですよ。w

今の東京は、その「形」の内側に本当には、なにが宿っているのかがまったく見えない世界になってしまった。つまり、人間自身が機械化してしまった。
 東京に住んでいる人たちが、目の前で話している相手の感情を推察しようとしたり、奥行きをよめなくなったのも、それと無関係ではありません。

 なにしろ、映画の作中では、呪が催眠術扱いにされていたことも、ショックでした。気の世界が理解されていない。
 これがハリウッドの海外の監督がつくったものならば、まだしもだったのですが....。

しばらく、そんなもんなんだよ、エンタメなんだから、と自分で自分に言い聞かせていたのですが、ある時、やっぱり言わずにはおられなくて、
 京都在住としては、この最新映画は、古代の日本人のあり方を否定する、すごく悲しい作品だったよ...と、友人の漫画家に、映画を見終わってから湧き上がってくる思いというか、ユーラシア大陸へのこだわりを伝えたんですよね。

幸いにも、彼女は、言っている意味をわかってくれたので、私の中のエンタメ界への溜飲は少し下がりましたけども。

そして、
「なにより、見えない世界の仕組みを知っていたら、晴明が京都市中で、最強の水龍を出現させるとしたら、ぜったいここだろう、という、出すべき場所が京都にはちゃんとあるんだよね...」

とLINEで伝えたら、

彼女は、気持ちを受け取ってくれて、
「うん、わかった。龍が本当にいるところから、私が龍をだすよ!」と約束してくれました。担当編集者も京都出身の方がついたそうなので、きっと、龍を本当にいる場所から、ちゃんと出してくれるはずです。
伝えてよかったと思いました。

 さらにどうでもいい細かいことを言えば、ですけど、映画の中で斎王が西洋人みたいにひとりで裸で寝てるシーンがあり、朝晩寒暖差の激しい京都で、外気と気温差がほぼない御殿の中で、これは絶対にアリエねぇわ、と思いました。(京都人、みんな思ったはず。)平安時代は頑強な体力がなければ生きていかれません。生き霊が、とかいう前に、基礎体力がなければお姫様も生き残ることができません。それだけめちゃめちゃ環境が過酷な京都盆地なんです。

 魔性のようなお香の存在や都内には寺院がないのになぜか除夜の鐘の音、ドタバタと聖域を走り回る所作も基本として、当時の貴族たちのほとんど完全な血族社会の理由をちゃんとしっていたら、要所要所で素材として、とてもあんな使い方はできないのです。

 ここまで今の若い人たちが、日本の歴史と切り離されてしまったのか、シルクロードと切り離されてしまったのか、ということに、狼狽えてしまった次第です。要するに、いまの戦後の日本人は、日本人ではなくて、みんな日系米国人になっちゃったんですね。
 外側を指差して、移民移民、て騒いでるけど、もはやネイティブ日本人といえないほどに文化理解度が下がり、自分達のほうが移民意識になってることにも気づかない惨状に落ち込んでいることに、日本全体が気付いてないんです。

子供に、偏差値を上げる勉強をさせるならば、ひとつでもふたつでも感性を磨く勉強させてください。もしあなたがその親ならば、良い師について、自分が体験の中で感性使う勉強してください。
って、本当に思います。 

 実は京都でそれを教えてくれて、形ではないものを辿れる素養をもった教授たちも、もはや、70代後半だったり、80代なんですね。引退された方も何人もいます。
 間の世代が、そう言う人たちからできるだけ聞き取りして、次の世代まで知恵と知識を温存していく役割をやっていかなかったら、もう本当に、縄文までの日本が自分の感覚理解から外れすぎて、まったく分からなくなります。

 そして、この人たちは若い頃、かなり忍耐強い学生さんたちだったんです。だから、話の長いもっと先輩の知識から、一生懸命聞くことができ続けた。
機嫌損ねたらおしえてもらえないですんで、ちょっとちがうな、と思いつつ、必死でそれやって、知恵を得たんですよね。

そんな方達が教授になって、伝えるべきものはたくさんもってるけど、今、聞いてくれる人がいないって言っています。日本に移民目的の中国人留学生が過半数の授業で、自分の名前が呼ばれたことにすら気づかない日本語力の彼らを前にして、高度な精神世界の話や儀礼など、どうせ伝わっていないのに一生懸命、仏教知識を講義することに虚しささえ感じていると言います。

そして、せっかく入学してきても、日本の学生は、金にならないことは基本的にまったく学ぶ姿勢をもっていなかったりする、とも言っていました。
 なぜなら、今の人は、忍耐強く、先生の話は聞けません。
 ネットで検索すれば、情報が出てくるからいいや、って思います。黒板もノート取らずに、ぱしゃっと、撮影して終わりです。
 教授の意識と、学ぶ側の意識とのギャップが大きすぎるんですよね。

 でもね、私は、知恵が気であることを理解してるんで、本当に知恵を持った先生だな、と思った時は、なるべくリアルを大事にするんですよね。
気の上で、知恵を転写してもらうことの方が大事ですので。

 ネット検索で得た知恵と人から得る知恵は全く違うものです。
 だから、大学では、知ってる人が生きてるうちに、できるだけ聞き回りたいと思っています。

この間、うちの娘に、「インターナショナル・スクールをやめて、公立の学校に行ってみて、どう? 後悔してない? かといって、〜〜ちゃんみたいに、その後、私立の高い小学校とかにもいかせてあげられないんだけどさ。」と申し訳なさそうに聞いたら、玉堂星の彼女はこんなことを言っていました。

「学ぶってことはね、環境だけじゃないでしょ。学ぶほうの吸収率っていうものも考えなくちゃいけないでしょう。

世界は、知るべきことがたくさん転がってる。とくに、じぶんの生活に関わるところには多くの学ぶべきテーマがあって、疑問をもって、答えをさがしていくことの連続だと思う。」

「インターに行ってみて思ったけど、私。あそこは破格のお金持ちが多かったけど、結局、どんな金持ちのおぼっちゃんだってね、どんなに親に環境を整えてもらったとしても、本人がそこから吸収する力がなかったら、どこへいっても、おんなじことなのよ。
20%しか吸収できない人が、すごく頭の良い人たちが通うとされる学校へ行ったとしても、所詮は20%なのよ。
 でも、大きな吸収力を持つ人は、どんな環境からだって知りたいことをいくらでも見つけ出して、自分で勉強していく。そっちのほうが意味ある学びになるのよ。そこを忘れないでねって、私は思ってるから。気にしなくていいよ、お母さん。」

小学校4年生から、そんな意見がでてくるとは思わなかったので、びっくりしたのですが、ああ、本当にそういう時代になったなぁ、と思ってきました。
少子化で、大学が潰れる時代です。
学びたい人をどんどん受け入れなければ、大学も継続できないのです。
受験とか、もう本当に関係なく、学びたい人が行く場所が大学になると思うし、次世代の子供はそういうことを魂レベルで知っているんだなと思ったんですよね。

膨大な知識獲得で、すこしでも研究にあてる時間がほしい、今日この頃。
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