子育てノウハウって、こういうとこが欲しいんだろうな

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クリスマスの記事を書いていて、改めて思ったんだよね。
子育て支援が必要っていうこと自体は社会的に認知されているけど、個人的には、日々子供と向き合っているお母さんにとって本当に欲しいものが全く社会に認知されていないと思う。

 医療費無償とか保育料無償化とか、そういうのは国や自治体レベルでぜひやって欲しいことではあるけど、そういうのをハードというならば、ソフトの面で子育てしている母親が欲しいものがなんなのかは、社会に全く気が付かれていないと思うんだよね。

 私が自分とこの幼児を二人を育てているときだった。
切羽詰まって、子育てアドバイスを受けようと東京の子育て支援課を訪れたことがあった。なんと、その時の東京の市の支援課の職員たちは、具体的なアドバイスが全くできない人たちだったんですよ。そして出てきたアドバイスは、「良い保育施設に子供を預けなさい」だけだったんです。

というのは、その職員自身が自分で幼児を育てた経験がなかったからで、その人は、自分は出産後すぐに仕事に復帰して、その赤ちゃんはほとんどの時間を保育園で育てられていたんですよ。
仕事が終わり、お迎えに行ってもあと赤ちゃんは寝るだけで手間もなかったそう。
「すっごく楽で、おまかせで、何も問題なかったわ。ぜひ、あなたもそうしたらいい。」
って、その人は、保育園探しをし始めたんです。
私は「いや、自分が求めてるのはそう言うことじゃない」
って、思いました。

 専門家であるはずの市の職員であっても、そう言う役職にありながら、自分は子育てを外注しているわけなので、経験などないです。マニュアル以上の知恵は出てこないです。

 自宅で赤ちゃんを育てているお母さんがどんなことで不安に思ったり、どうしたらいいか迷って困ったりしているかということの一切に市の職員は、全く答えられなかったんですよ。
 だから、ない経験の中からやっと出てきたその人のアドバイスは、その人にとっての唯一の解決策であった、「保育園に預けて、その人たちにやってもらいなさい。」ということだったという....
自分の仕事やってないですよね。

 今、日本では、税金でちゃんと子育て支援がなされていると思っている人多いかもしれません。でも、実際は、これまでと明らかに社会環境や時代の価値観が違う中奮闘する若い人たち視点からすると、日本の子育て環境は悲惨な状況にあると思います。
 だって、幼児を育てる育児ノウハウですら、こんな惨状なんですよ。
マクロを対象にした子育て情報ではなく、ミクロレベルでアドバイスくださいよってあたりで、周りに誰もアドバイザーがいない。
 実家の親はまだ現役で働いていて、早々見てもらえるゆとりもないとか普通になってます。親が子供を毎日見てなかったひとも増えている。

こんなふうに、おばあちゃんの知恵袋的に手助けをする人が世の中で減っている中ですが、本当に欲しいのは、専門家の語る正当な子育て知識というよりも、目の前のこどもと向き合うときに必要になる具体的なやり方の色々のほうではないかとおもうんですよね。

 自分で育ててて思いますけど、私は子育てノウハウというのは、狐と狸の化かし合いのようなもんだと思っています。

 たとえば。
この間、幼児と小学1年を育てているお母さんが、
「いくらお風呂上がりなさいって言っても、ずっと遊んでて出てこないんですよ〜(涙)」とおっしゃったんですよね。

で、私はこうお教えしました。
「そういう時はね....お風呂の温度を、密かに1〜2度あげるんだよ。(にやっ)w」

二十分もしたらあったまって、十分に血流循環はしているわけなので、もう出ていい頃合い。

その時「遊ぶのはやめて、お風呂から上がりなさい!!」って、こどもを怒るんじゃなく、すかさず黙って、風呂の追い焚き機能を使うか、足し湯をして、42度くらいにしちゃうんですよ。

子供って、いい具合にぬるいから遊び始める。w
(念入れるなら、扉閉めて換気扇をとめて、風呂の近くで待機しておく。)

子供はサウナ状態の風呂場から、たちまち熱くて「もう上がる」と自動的に上がってくるでしょう。
この方法だと、どうせ子供に上がれと言ったって、言葉通じないわけだし、べつに怒るまでもないです。上がって欲しい時に、湯温をあげる。

そういう、狩猟みたいな知恵が、子育てにはいると思っています。

ほかにも、親は早く公園や幼児施設から歩いて帰宅したくても、幼児がいうこときかないときってたくさんありますよね。

あるお母さん、「歩幅が狭くて、なかなか家に辿り着かない上に、子供が家までの道のりで道草をくって、早く歩いてくれないんです〜(涙)
 それに2歳って、道路に直ぐにはみ出て、怖くて怖くて、結局、私が抱っこしたりして連れて行くから腰が痛くて。」っておっしゃるので、

そのときは「電車ごっこしてください。」って言いました。

「は?」

幼児って本能的に、床に線が引いてあると自動的にその線の上を自らたどってしまうという習性があるんですよ。w 

 道路に歩行者用の白い線とか、盲目の方のための黄色い凹凸タイルがありますよね。だから、それを指差して、「今から、電車ごっこをしよう。さぁ、そこは線路だ」と幼児に教えるんです。

幼児はめっちゃ喜んで、平均台を渡るような感覚で、その線に沿って嬉々として歩き出します。
 時々、駅も指定したり、最終駅を自宅前に一番近いタイルとかにすると、イマジネーションの中で、幼児たちは特急電車になります。

あとは、ノリです。
もりあげて、発車しま〜す!とかなんとか言えばいい。

 親は、子供たちが線に沿って早足で歩き出すと、脇道にもそれず、道路に飛び出す心配もなく、安全ですので、その後を後続車両になってついていけばいいだけなんです。目の前に盲人で杖をついている人がいないかちゃんと確認しながらですけど、子供の安全のため黄色いタイルの上、歩いたっていいんじゃないですかね。w

このようになるべく怒らない子育てにはトム・ソーヤのように、仕事や義務を遊びにして、動かす知恵がいる。
日本から、こういうのが消えちゃったんですよね。

幼児・子供は、正当な理由を言ってわかってくれる相手じゃない。
発達段階があるので、時間という概念もないです。
だから、方便を使いまくる必要がある。(※方便=嘘、ではないですよ。)
 極端に言えば、方便のセンス=子育ての知恵かもしれませんよ....。


そういう技術的なものはいろいろありますけど、逆にこれだけはやめてあげてくださいっていうものも、ありますよ。

 他人が子供褒めると、「うちの子のダメなところ」を言い出す謙遜親っていうのが、日本には必ずいます。

 親バカだと思われたくないのか、日本人の親って、まだまだ人間関係の中で、なぜかそうやってこども貶めて、バランス取ろうとする人がいるんですよ。

それって、実は、自分の子供に対して非常に失礼なことだと思いませんか?
って、思います。

 うちの愚息が、っていうけども......、もしくは、うちの息子アホだけど仲良くしてやって.....っていうけども、
それって、あなたさ、同じセリフを自分の友達に言いますか?

いや、言わんやろ。

うちの愚友が、とか、アホな友人だけど仲良くしてねって、その人の前で言いますか?

 友達にもいえないことを、身内だからと子供には言ってるって変な話ですよね。これって、子供に対するモラハラだと、自分は思うんですよ。
日本の親子は、そういう線引きができてない。

だから、自分達の場合は、自分の子供を誉められたら、それがそうならちゃんと肯定して、関心を向けてくれたことに感謝しますよ。
いえいえ、そんなことないですって、否定しない。
「そうなんだよ、うちの子ども〜〜が得意なんだよ!」とか、
「〜もうまいんだよね。」と嬉しそうに受け止めてます。

それで褒められた子供が得意になっても、ほっときます。
「すごいね!」と結果を一緒に喜びます。

でも、日本人の大半の親は概して、それを良いと思わないようで。
自慢している、マウント取ってる、と歪めて受け取るんですよね。
外国人がそうしていても、外人さんは別、と許容するのに。
褒められたら嬉しくないふりをする、って歪んだ文化じゃないですかね。
喜んだら、いい気になってる、本当にそうおもってんだ、って評価するってめっちゃおかしいコミュニケーションだなって思うんですよ。

 自分からしたらなんですけど、自分と子供の人格は別物だし、子供は自分の所有物ではない。子供が他人に誉められることと、自分の価値とは全く別なものなのね。

だから子供が誉められているのに、
「いえいえ、うちの子まだまだ未熟なんです」
とかって否定している親を見ると、
「は?なんであなたが否定するの?」
とか思ってしまうわけですよ。

ふつーに考えてなんですけど、
じぶんの友達がいて、その友達が誰かに褒められるとする。
そしたら、「いえいえ、この友達まだまだ未熟なんですよ」って、言う?

 そんなこと言ったら、そのお友達は「お前と俺の関係って、主従関係じゃねぇし!」って思うと思うんだよね。
下手すると、「なんでお前が、俺を評価・否定するの?」って絶交されるかもしれない。

でも、子供は親にそういうあつかいをうけたとしても、力関係上、親に「お前、それ俺に失礼だろ」って、言えないんですよね。
 親は大好きな人ではあるけど、自分の絶対評価者として、子供の方は受け入れたいわけじゃないはずだって、私は思うんですよ。

 私の場合ですけど、友達が誉められたって、自分は誇りに思うし、そう言う友人を持ってる自分が誇らしいと思うし、自分の子供が誉められたって、そう言う子供と一緒に過ごせて仲間として誇らしい気持ちになる。

 何一つ変わらないのに、なぜ日本人は自分の家族を平気で侮辱する様なことを言ったりやったりするのかな?
って、こういう「謙遜文化」を目の当たりにすると、いつもそう思ってしまいます。

 そして、子供の成長を喜び、こんなことができる様になったよ!と成長報告を堂々とする我が家は、親バカの「自慢屋」とみなされて、遠巻きにされ、鼻つまみもの扱いされることがある....


えええっ?!
どっちが子供に対して失礼なの?!w
子供貶めることが謙遜?それ、違うでしょ!
って思うんですけど。

 子供は、一番の味方だと思ってる大人から、人前で否定されたら、「自分ってそう思われてるんや」って、信頼関係を持てなくなります。
だからそれをやってる親をみつけると、あ〜やめて〜って思います。

そして謙遜文化で生きてる人は、
大きなことを言えば、子供だけ貶めをやっているわけじゃない。
家族や身内全員をおとしめる謙遜をするんです。
いえいえ、とんでもございません、と自分の夫を貶すのもおかしいし、自分の妻を貶すのもおかしい。自分の親を貶めるようなことも「謙遜して」いいます。だから、ましてや自分の子供を貶すのもおかしいよね?

 だから、誰一人、あなたに所属している持ち物ではありません!!!
って言いたくなることがあるんですよ。

もし、自分と他人が違う領域で生きていることをしっかりと認識できていたら、かえって、気楽に家族を褒めることができるはずだと思うんですよ。
 家族を大事に思うなら、一番身近な人間の否定をしないでほしい。

 近い存在だから、かえって大切にするべきひとたちですよね。
 仲がいいから何を言ってもわかってくれるだろう、と言うのは甘えであって、大切にするのとは全く違います。

日本の子供は、身内に否定され慣れているので、自己肯定感が低い人は多いです。本当はそのような人ではないけど、そんな文化土壌から、自分を小さく見積もっている人は多いです。

向上のための謙虚な心はあってもいいけど、こんな偽の謙虚、謙遜文化は、日本にはもういらないんじゃない?

 日本の家庭の皆さん、自分の子供を謙遜ぶって、悪く言うのはもうやめましょう。自分の所有物でないからこそ、相手の尊厳を認めて、肯定しましょう!子供の成長を、子供に嬉しい、って伝えましょうよ!

って言いたくなります。

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さて先日、家の片付けしてたんですけど、実家が送ってきた40年近く前の自分の成績表を処分するとき、自分の小学校の成績表を開けてみたんですよね。
 実は、開けるのが怖い成績表ではあった...。

小学校5年生の時の先生が、成績表に書いたメッセージで、大きなショックを受けた記憶があったからだったんです。
で、それをあらためて大人の目線で読み直すことになった。


小学校5年の自分は、空想が好きな子供だったんですけど、
ある日、配られた成績表の総合評価のコメントが、
”独りよがりな面が見受けられる時がある。個人的には面白い子供である。”
と言うことが書かれていたんですよね。

それをみたとき、小学校5年生の自分は、衝撃を受けた。
教師ってやつは、もう安心して話すことができない。信用できない。
とそれが長いことネガティブなこだわり・心の傷になっていたんです。

大人になって読み返すと、まぁ、大したことはない。
(つうか、小学生はまだまだ独りよがりになっても仕方ない年齢だろう。
何を言ってんだ、こいつは。とも思うし。)

いまでは「ああ、教師は書くだろうな、こんなこと。」と淡々と受け止めてそうは思うけど、じゃあ、子供の時にあれほど深く傷ついた理由はなんだったのだろう、と改めて考えることになった。

 子供の自分にとっては、価値観の中に教師が上で生徒が下とか言ったような形で、元々、自分の世界には、上も下も存在しない世界があったと言うことが大きな原因だったんじゃないかなぁと思う。

 すべての人は同じで、どんな人とも対等に付き合ってるつもりだったから、おそらくあの時も、その担任の先生とも、心を割って自分が正直に思ったことを楽しく話しただけのつもりが、後でそれが元で、一方的に教師の視点で「評価」されたことはびっくりしたのだと思う。

 あんなに傷ついたのは、ハートを開いて交流したことが、突然思わぬ形で裏切られたように感じられたせいだったと思う。

 それには別な理由もあるかもしれない。
 最近、チベットに留学した日本人の書いた本で知ったことなんだけど、どうやらチベット遊牧系では上下関係が基本的に存在しないらしいのだ!
 目上に敬意を払って、一歩引く様な韓国や日本みたいなものがないらしく、文章からしかわからないが、対等目線で関係が結ばれているという。
 実際、生活の中に入っていったことがないので、チベットに関して具体的な体験はないけど、遊牧世界だからなのかな、と思ったりした。

 確かに、今年夏に、モンゴル遊牧世界の中で、短期で通訳で働く人と遊牧民雇い主との関係を見てた時、日本のバイトくんと雇用主の関係とは全然違うな、と思ったのを覚えてる。
 そう、一見して、全体が、親戚かファミリーみたいな関係性だったんですよね。

 だから当時小学生の自分も、その常識感覚のまま、過去生感覚のまま、遊牧民式に日本を生きていたのかもしれない。

 ただ、自分の個人的ないい分としては、誰であっても、相手を大事に考えると言うことは、自分を大切にすることと同じことだと思うんだよね。それは教師と生徒であってもそうだし、自分の子供もパートナーに対してもそうだし。

 東京によくいるヒエラルキーを意識するステレオタイプの人のように、相手を褒めることで自分が下がる、と引き算のように考えるのはおかしくて、自分の考えからすると、相手を褒めると言うことは、すなわち、そんな素敵な仲間がいる自分って、素敵じゃん!と自分も褒められているのとおなじ意味なんだと倍々に感じている。


 例えば、バスケットボール・チームがあって、他のチームに「お前のところのフォワードはすげえな!」って褒められたら、嬉しいよね。
「だろ〜?だから、うちはつええんだぜ?何を隠そう、うちのセンターもすごいぜ?」って自慢げに言いたくなる。
仲間って、ファミリーって、そう言うもんじゃないのかなって、私からしたら、思うんだよね。


でも、今の日本は多分、「仲間」を持ってる人は、実は少ないよね。
「友達」じゃなく、音は同じだけどあったかみのない「トモダチ」みたいなのは数だけはいる。みんなテンでバラバラな方を見て、感動も薄く、利害を共有するから、刹那的に同じ時空間だけは共有する。
まるで、それじゃ、成仏できない霊みたいな感じだ。

 嫉妬し合うのを知ってるから、プライバシーはできるだけ隠す。喜びごとは、本当は嬉しくても嫉妬が怖いから、嬉しくないふりをする。
捨てられたくないので、同調しようとする。
 褒められたら怖くなるので、今後の人間関係リスクを考えて、汚点を自分からあげて、人間関係の褒められた分相殺しようとする。


なんかこんなのをいっぱいみてきた気がするし、自分もなんだかんだでそこに巻き込まれてきた期間が多かった気がするんだよね。
だから東京にいたくなかった。
京都でも同じような人間関係に囲まれる生き方はしたくない.....。




で、ここにきて、2024年が始まるじゃないですか。

何やってんだろうねぇ
そんなことやってたら、誰も幸せになるわけないじゃないか。
あ〜やだやだ。って、本当にそれについては、思うんだよね。


そんなふうに、昭和生まれのわたしたちは、ずっとずっと「目上」と呼ばれる大人たちから、一方的に「評価」されることが当たり前で育ってきたんですよね。

そして、「評価」が良いものであるようにしろとプレッシャーをかけられて、ずっとずっと僕らはがんばらされてきた。

でも、ちょっと待って。
それって、自然なこと?

皆さんも少しづつ、ちょっとはこんなふうに思い始めてやしませんか?

僕らは本来誰からも評価を受けるべきじゃなくて、本当は「好きか嫌いか」または「一緒に信頼関係を築ける人間同士になれる相手かどうか」。
もともと人間関係の基準は、それだけで良かったんじゃないか、って思うんですよね。

だから、本来、政府や政治家は上でもない。下でもない。
 お上の言うこときかなくちゃってみんな自然に従うけど、そうなの?それって人間の本来の生き方では、あってるの?

なのに、社会のどこへ行っても、AとかB 、Cとか、何点とか、ものの品質を決定するように、人に対して烙印を押してくる、日本のすべてのシステムに対して、なんで僕らは無抵抗でいるんだろう?
って、昨日、ふと思ったんだよね。

今週、友人からもこんな話を聞いた。
 インターの校長に棒グラフを見せられて、娘さんはこの学校に入ってから、英語の実力がこんなに上がってきていますよ、って、転校をやめさせるための説得をされたという話。

で、すごく違和感を感じたって話していて、
 正式な学力テストや外部テストを入れたわけでもないのに、棒グラフの基準とされている軸は一体どこから持ってきたものなの?ってのがまず疑問だったそうだけど、そもそも、

 子供の成長って、数字化・見える化するの、おかしくないですか?
 人って、工業製品じゃないし、その軸だけが評価基準じゃないでしょ。
って、話してて、すごく共感した。

なんだか急になんだけど、そう言う当たり前のことが、今更、受け入れがたくなった。

 実際、そんなこと言っても、自分もこういった評価システムには参加してる。ココナラはそうしないと、利用できないから。
 でも、このココナラの評価システム方式もおかしいよなぁ、と思ってるし、でもルールを守らない相手では困るから、それはちゃんと他の人のためにも警告出さなくてはいけないことだけど、評価目線で相手を見ることそのものには、なんかすごく違和感を感じている。
 それは、自分の小学校の成績のコメントの時の違和感とおんなじレベルのもので、大事なものが傷付けられているような気持ちになる。評価されることを、いつ自分がゆるした?そういう思いが教師に対してあった。

 歯車にする人を保証するために、学歴や履歴が大事だったのは、昭和・平成では、当たり前に社会に蔓延った価値観だった。
 霊能者じゃないので、そのほうがはじめてあったその人の生き方を本能で見わけるより、見える化したほうがわかりやすかったのだと思うけども、
 でもこれから先もそれと同じでいいのかというと、それは絶対違うと思う。

これから先は、国自体が縮小していくけど、元々社会というのは、誰もが能力が凸凹だから、人は仲間を作って協力し合う場所だったんじゃないかな。
できることを提供しあって、みんなで幸せになっていこうと生きていく社会ね。

 教育にしても、君がどこで咲かせる花なのか教えて、それを一緒に探していこう、って子供を育てていくのが本来のあるべき教育なんじゃないかと思う。
 だから、今、子育ての世界に本当に必要なのは、ヒエラルキー以外のそとを見られる人間とか、多様な人間、多様な社会を知っている人の目線なのだと思う。


日本はこれから、どんどん精神性が縄文時代に戻っていくって言われていて、ペンキ画家ショーゲンさんの動画などをみたりすると、ああ、ほんとだなぁと思うことも多い。
 そう言う方へアンテナが立ってるから、こんな意見になってるのかもしれないけど、今、思ってることを書いてみました。

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