一足早く、本年の営業終了します。

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大学の授業もひと段落し、そろそろ来年の準備です。
振り返ると営業再開から、あっという間でした。

そして、今月は、体調の大変さも含めて色々あったせいか、ついに自身の公式SNSの更新を、開始以来初めて投稿し忘れてしまいました....
う〜ん....
もう今更なので次は、年始に向けて更新しようかと思っている次第です。
(^^;

 今年は、色んな意味で過渡期なんだと思うんですよね。
今、私は世間に広まっている日本算命学の本当の背景を知るため、またその正しい経由ルートはなんだったのか、その歴史を追うため、日本でも数少ない密教専門の大学に通ってるわけなんですけど、この大学.....やっぱり普通の大学ではない...とよく思います。
 東京に集中しているような、偏差値の高さがステイタスとして自慢できる花形の大学には、絶対に存在しない価値観があるんです。
 正規の大学ではあるんですけど、この大学が社会に伝えたいのはその精神なので、寺に関わる人たちや教授たちがどんな思いで仕事をしているのかをひしひしと感じとるんです。自分達が受け継いできた伝統的な知識、記録や資料、日本の歴史を動かし、世界の歴史的価値の高い仏教世界の系譜を未来の人たちに少しでも役立ててほしいという、冷静だけど諦めではない、関係者全員のそんな静かな熱意ですよね。

 通い始めた当初は、自分もただ勉強できればいい、くらいなことを思ってたわけなんですけど、世間から「一体なぜそんな大学に行こうというのか?」と問われるような、普段はその価値を全く振り向かれない超マイナーな(本質的には)密教一本のこの大学に通っていく中でね、感じるんです。

 それは大学職員だけではないです。卒業生や、四国遍路の修行道場の精神世界を維持しようと尽力している人々、密教の叡智を繋げよう、支えようとする篤志家さんたちの存在を学生として御接待を通して知ったり、はたまた代々の実家の寺を継ぐために通っている子弟が、実家や地域の檀家さんのために存続の危機のプレッシャーを背負いながら、自分はどのように地域社会に必要とされる僧侶になったらいいかを真面目に考えて通っていたり、なんとか密教の知恵を実学レベルで社会に活かし、自分の人生の意味を全うしようとする教授たちのほんわかした信念の背中を感じたり。

 そういう意味でこの大学には、
金も損得も関係ない。全ての人が幸せで平安であるように、
という純粋な祈りの世界が広がっていました。
 もちろん学費は払ってはいますけど、教授たちは知識や情報を学生たちに出し惜しみしません。インド哲学や遺跡の発掘や古文書を紐解く楽しさを、仕事だからと言う以上に、エッセンスを自分がこの世界が好きだからこそ、一生懸命わたしたちに教えようとしてくれるんです。

 これが算命学鑑定学校ならば、知識の全てはお金と引き換えの世界ですので、何時間でいくら、何ページの鑑定でいくら、ノートに技法知識を3000語書けばいくら、というような対価交換の世界に置き換えられてしまうでしょう。
情報がそのままお金に変わる世界なので、質問したら嫌な顔もされます。
 いろんな理解度レベルがあるのに、生徒を時に馬鹿にしたりもします。
でも、そんな民間スクールビジネスなのに、正規の学校顔をしてるんですよね。そこがやっかい。民間私塾と正規の学問の世界は全く違う。

 大手鑑定学校では、”算命学は自分を知るための学問”と謳っていますが、一人の人が自分を知るために4年以上かけて、学校は総額いくら取るのですか?
 そこでわからなければ、その後学びにさらに10年かけてみたとして、宿命がわかって、なすべきことがようやくわかったとしましょう。
 その時、そのテーマを人生そこからスタートして、果たして宿命を生かすための時間や資金は残っているんでしょうか。
 鑑定士に向いていないことをわかった後、どうするのでしょうか。
 本当に無責任なことを言うなぁ、と思います。

 そしてそういうふうになるのは、別な言い方をすると、世の中に鑑定学校を卒業する人はたくさんいても、その中にきちんと宿命を読める鑑定士がほとんど輩出されてないからなのではないかと思うんです。自分が勉強してわかるしかない、というふうに思わされるほど、鑑定がひどい。
でも学校は、わかるように教えませんから、同じことの繰り返しです。

 だから、日本算命学のまやかしの世界に惑わされないでください、と私は思います。土台になる思想理解がなく、使い方を間違えた人に鑑定されたら、算命学は普通の人にとって救いのないもので終わります。

 一方、この大学は責任を持って学生を育てます。密教が実学として力を持ち権力を動かした歴史を理解しているからこそ、その知恵を使って再びおかしな人が出ないように、大学・密教界が責任を持って心の中身を育てています。
 また、卒業生たちが社会に出た後の人生がより良くなるようにと、心をかけてくれます。

仏教の本山というのは、そもそも江戸時代以前は、日本の総合大学としての役割を担っていた場所だったんですよね。
 だから、より、学問色が出ているような気がするんです。
 学ぼうとする人の出自に関係なく、出し惜しみすることがない。玉堂星・龍高星の表す学問の世界とは、まさに育くむ世界。
母の愛は無償の愛、与えっぱなし。
 私はそんな世界に、改めて感動を覚えるんですよね。

義務教育もそうだけど、無料だからって、私たち国民が当たり前に受け取ってきたことは、実は全然当たり前じゃなかったりする。
 公立の学校の先生が、娘たちにかけてくれた思いやりを感じ、子供たちがその思いによって育てられていることを実感するからこそ、教育って、金次第じゃない世界だって本当に思う。
 お金にならないことを、自分の損得関係なく、子供を育てるために愛情を与えてくれる教師たちの思いの尊さを感じる。

 そういう尊いものに触れることで、自分も勇気づけられるし、自分はここと長く繋がっていたい、って、いつの間にか思うようになっていて....、もちろん、自分は仏教徒じゃなくて、実はキリスト教徒なんですけども!

 人の純粋性、仏教の言い方だと仏性というのでしょうが、人の光に触れることで自分自身もブレた時、原点に常に戻れるような気がするんです..
 そしてそういうものが、意識してようが意識してなかろうが、京都には脈々と受け継がれている。

 日本人がお人好しと言っていいほど人がいいのは、日本全国に敷いた江戸時代からの檀家制度の影響で、仏教思想が日本人の生活に入り込んだからです。神道によって、身(エネルギー)を清めるという発想があったからです。
 そして儀式や形式自体にとらわれず、形式の中で無形の精神性のエッセンスを継承してきたからこそ日本という国が出来上がったのだと思います。

 大乗仏教は利他の精神で動いています。
まさに福祉とか社会貢献とか、各時代において政治や社会の歪みはいつもどこかしらに現れるのですが、仏教者というのは、その中で自分の存在意義とか、自分が社会の中でどうあるべきなのか、ということを自問自答しながら生きる、そういう世界観なのですよね...。
 言ってみれば、全体の大いなるものの中のパーツとしての自分達を意識しているというのでしょうか。これはインド仏教とかにはなくて、自然崇拝も絡んだ日本独特のものだと思います。

そんな世界の中で振り返れば、教授たちの育てたい思いの純粋性に触れて、

「自分は若くはない。むしろ、もう人生の折り返し地点を超えているけれども、生徒の一人として、今後の人生の中でプロファイラーをしていく本質的な意味とはなんだ?」

というのも改めて考えさせられたかもしれません。

 そして、それは実は私が子供の時に、意図せず、天誅殺の年に多次元に繋がってしまったせいで持って行かれ続ける気の流れを、今年、完全に止めるべき位置にいるからだということも、ひしひしと感じています。

 さて、「働く」というのは、はたを楽にすることです。
自分が周りに貢献したことに対してお金をいただき、感謝されて、社会の中に自分の居場所を感じながら生きようとする、人間の生命活動の一つです。
 だからお金だけもらうためにやっている仕事というのは、だんだん心が荒んで行くわけです。

昔、「仕事のお給料は我慢料、文句を言いなさんな」と美輪明宏さんは言いましたが、それはもう昭和の価値観であり、我慢しなくても仕事は成立します。
(どこからが我慢で、どこまでが楽しくやれる境界なのか、それを自分で知ることも大事で、そういうことそのものが宿命を生かすことでもあります。※ライフワークバランスを見つけることも、中庸の精神。)

 自分がそれを好きで、楽しくやれて、得意で、それをすることで周りも助かって喜んでくれて、共に感動も味わいながら、向上するための試練すら楽しみながら進んでいける。
そういう「自分を磨く道」に変えていくものが仕事です。

 自分も当然、その無形・有形両方の報酬を期待してこの仕事を続けているわけなんですよ。

 今の中国やアメリカ型の、サービスを消費する感覚のまま、あらゆるものを自分本位に汚して使い捨てるのではなく、日本の経済は、本来、全ての仕事が社会の中で循環しています。

 経済活動は、右肩上がりを突き進み、毎年毎年、営業利益を上げ続けることに価値があるのではなく、そもそも社会に良きものが循環するから成り立ちます。だから、日本古来からの経営者は、あらゆるものをうまく循環させながら上昇するスパイラル・システムになることを目指して経営をしてきました。

 その世界では、受け取る人、提供する人、両方が世界を作り上げて、社会が進化・発展していくわけです。
 買う人も売る人も、循環の流れを受け取って、その両方ともに循環の責任があるんです。誰かが勝って、誰かが泣く、損をするというような、単純な世界は本来、日本のビジネスではあり得ないです。

 京都では、それがまだ洛中の古くからの自営業者の精神の中に残っているので、私は、自分と価値観がぴったり合う京都市内をホームベースにして、本当によかったと思ってます。

 そんな背景の中、自分の実学算命学の仕事を考えた時、オンラインのやりとりというのは、相手の器が見えずにやるわけですので、なかなか難しいものがあります。
 目の前の人がアドバイスを受け取れる人なのかどうかという反応性が見えないまま鑑定書を提出し、受け取る文章から全てを判断するしかありません。
 そして、その宿命の語るままお伝えすることになります。
ですから、「この人、理解できなさそうだな」と自分を守るために早めに判断して、恨まれないように表面的な内容に薄めて伝えることができません。
 だからわざわざ深い鑑定用として、サービスを用意しているわけです。
 でも一般的な人は、払えるかどうか、金額の安い高い、しか見ていないのでしょうね...(汗)


 申し込みをされる方がそうしたことを了解のもとで、申し込んでいただけていれば良いのですが、ここ最近の傾向として、遊べるお金をたくさん持っていらっしゃるのか、生活にゆとりがある方の場合にはそうはならないんですね。
 そして、結局、淘汰ぎりぎりの状態、これが最後のチャンスという状態の方でありながら、渾身の鑑定書でお伝えしてもその重要さを理解せず、なんのヒントも一つも取り入れずに「無理無理〜」と自分の中の独自の制限意識に阻まれ、自分本位にスルーしてしまったことを後で他の方から聞いたりすると、「ああ〜あの時間は無駄だったね」出会いたくなかったなぁ、とこちらとしても思うのです。いただくお金以上に、クライエントさんの人生を真剣に考えて、何が良いのか押し測る気持ちがあるからですね。

 本気で悩んでいて、切羽詰まり感のある人のためにというコンセプトでやっていたわけなのですが、ココナラでも、嘘かほんとかわからないスピリチュアル除霊やヒーリングとかで5万円や8万円という価格がついていても、変わらずに多くの申し込みがあるのを見ると、そういうことを気軽に投資できる人たちが世の中多いのね〜(汗)と、改めて思います。
 だから、3万円程度など高額鑑定などには当てはまらず、全然、フィルターにはなってなかったんですね。
 私の金銭感覚が庶民すぎたのかもね〜(苦笑)と今は反省しきりです。

 そして、社会貢献という意味で考えると、なんとなく仕事に疲れてしまったということもあるのですが、これまでの在り方から、仕事の方向転換をしようと思いました。

 人のために自分の技能を提供して、社会をよくしたいと考えるならば、もっと活かしどころというか、自分の技能が本当に必要とされている別な世界があるんじゃないかと思ったんですよね。

だから、本当にそれを必要としている場所で、この世でのこの学問の存在意義を自分で確信するために、ボランティアはボランティアとしてやっていき、ビジネスはビジネスでやっていこう、と思ったんです。

 つまり、今後、Jemmyであることを明らかにせずに、大学関係や寺社で機会をいただけた時、学生さんたち向けのユース価格で、時折、進路や家庭の複雑な事情をどう捉えるか苦しんでいる若い人たちが相談できるように、コンサルティング・ボランティアをしようかな、とふと思いたったんです....
 普通の人の悩みには、多分、自分はいらないです。

学生は相談に高いお金なんて払えへんし、周りも似たような年齢ばっかで社会経験はないんやし、今、日本の青少年たちには、率直に言って、人生の相談場所なんて正直ないです。
 お金があり、親の理解がある子供たちだけが、サポートを受け、将来が約束され、教育が優遇されるガチャ世界です。

 今ね、日本の多くの学生が奨学金を抱えて、大学に来てるんですよ。いや、日本人学生、実際減っています。来てるのは、中国、韓国の学生の大群。
 日本政府はそこに奨学金を出しているとか、いないとか。
 一方、日本では、ケアラーと呼ばれて、思春期の子供たちが小さな頃から家族の介護をしながら学校へ行っていたりするケースもたくさんある。
そういう子たち、悩むと思うんですよ。不安抱えても、どこへ持っていけばいいかわからない。もちろん家族にも話せない。
心理的な、手助けを受けられない。

 地域のコミュニティや親戚づきあいったって、「金だけ今だけ自分だけ」のこの日本では今、非常に内的関係が薄いわけなんで、多くの子供たちは、育つ上で家と学校だけしか世界がなく、誰にも自分の内面を相談できないまま、真面目に悩んだままの若い人はたくさんいるんです。

だから、そっちの方へ、自分の知識と技能で、迷ってる若い人へ社会貢献ができてよかったなぁ〜という満足感を求めていこうと思ったんです。
そういう子だったら、「Jemmyさん、また来ました〜就職できました〜」って、近況を話しながら、お茶交えて、リピートで相談しに来たっていいよなぁって、そう思えた。占い依存してる人に、執着されるようなリピートされたくはないけど、縁側のおばあちゃんとお話しする感覚の若い人に、たまにちょっと利用してもらう、っていうのはいいかもしれない。

 多分、それを過去、日本でやっていたのが、僧侶とか神官とか陰陽師だったのかもしれないと思うんですよね。
 日本算命学は、このまま占い遊びして当たった、外れたやっていればいい。嘘の人間学学校をやって、人の人生の時間を奪っていればいい。

 一方、空海がなんのために密教の体系と、その思想をビジュアル化した曼荼羅などを命懸けで唐から持ってきたのかと考えると国家安寧のためですよね。
 日本社会の次元を少しでも上げるための現実的な手助けツールを、シルクロード・国際都市長安からいっぱい携えて持ってきたかったんです。
空海には、そういう高い視点があった。

 じゃなかったら、奈良仏教を保護しようと手助けしたり、ライバルと言われた天台宗の宗祖・最澄を受け入れたりはしなかったんです。
 平安時代の日本にいた、空海の見ていたものは、時の権力とかそんなもの以上に、日本の意識次元を底上げして、いかなる人も全員で幸せになっていこうとする世界観なんです。

 空海の大きさに触れて、仏教世界をしれば知るほど、私の見ていた範囲の狭さを感じもするし、理想論に見えるようなことをあの平安の時代に実直に実行に移した行動力と判断力と、人間のスケールの違いを痛感してしまう。
 手術後の痛みだけで、人生絶望感でいっぱいの自分とは全然違う。w

 現代は、みんながズルや誤魔化しをやっている世界の中で、自分だけ正攻法を取ることの馬鹿さを意識させられる時代です。
ワクチン被害の問題も、いわばそうでした。
危ないよ、という情報は、確実に回っていた。
 でも、自分の命のことを真剣に考えた上で、判断したのかどうかは色々。
みんながやっているから、自分もやった。それくらいの軽い気持ちで何事も生きて、同じような心の言い訳の手口で、いつもあなたは自分を誤魔化してはいなかっただろうか。
そういうことが、Xでも言われるようになってきています。

 私は通学する時、いつも、スピリチュアルレベルでの学長である空海の像に燈明と線香と読経を捧げます。これは、空海にというよりも、自分自身の心の灯火を繋ぎ続けるためにやっているような気がします。
 LEDランプをつけるのと、実際に火を燃やすのとは、違うんですよね。
火の気が起こると、場が変わるのを感じる。
 で、自分しかやってないことだと思ってたら、ある日、自分よりも前に明かりの灯ったろうそくが2本そなえてあったんですよ。

そして、その日を境に、よく見かけるようになった。
 お線香があげてあったり、お花が供えられたり、綺麗な水のお椀が備品として捧げられたりしているのを発見するようになって、私、思いました。

誰が供えてるかは、わかりません。
でも、大切なことを大切だ、と思っている人は、世の中には確実にいるんだ。
その人たちとは心で繋がっているんだ。と。
 そしてその人たちは、自分ができる範囲の中で、自分が貢献できることをやろうとしている。そうやって、みんなで、世界をちょっとづつ良くしていこうと動き出しているんだ。って、そんなふうに感じたんです。

 私自身が、20年近く前であっても、一度、遍路道1600キロを歩き、その修行道場の中で精神と肉体の限界に何度も直面したことがあるからこそ、空海を慕う人たちの心が真であると、信じられる。
 自分のやれることで貢献する世界とは、算命学が役に立つ学問であると吹聴して生徒を集めて学校を潤すことではなく、密教の裏付けを持って実学算命学をより実用レベルに昇華し、社会不安にこたえていくための人間分析ツールとしていけるかとか、独自の研究を社会に活かしていけるかどうかとか、そういうことの方が、自分にとっては大事な方針なんじゃないかって、そんなことを思いました。

捧げられた燈明の炎を見て、思った。
 一人なら挫けるかもしれない。でも、同じ志を持った仲間がここにはいる。ならば、目指すところへ向けて、歩き続けられるかもしれない。

 今日は自分が心の中で慕っている僧籍の教授が月法要を行うので、祭壇を一度見てみたいという気持ちもあって、学校に行ってきました。
 裏にはこの後だったら時間があるはずだから、教授と話をしてみたい、という思いがあったんだけど、教授のまとう黄色の法衣に包まれた背中を見たら、もう、聴こうと思っていた、個人的なことは、何一つ言えなくなった。
 東京育ちで個人主義、効率・合理主義であるはずの自分が、このチャンスを前に、なんでそうなったのか、自分でもうまく言えない。 

 そうして、聞きたいことを聞けずに、突っ立っていたら、たまたま通りすがりの事務の人が、用事があるに違いないと声をかけてきてくれて、焦って
ワタワタしていたら、京都における大学のシステムについて色々教えてくれて、学籍身分の切り替えのお話をしてくれたんですよね。
 あの教授を師にして、密教世界の歴史を学びたいんだ、どうすれば学べるのか、と私は一生懸命説明した。
 そしたら、世界が広がるから、正規の学生になったらどうか、と経済的にも立場的にも実行可能なプランを親身に提示してくれたんです。

 この先の学問の広い世界の扉を開きたかったら、正規の学生になるしかないということがわかってきて、来年からこの大学の正規の大学生になろうと、そう決意したんです。インドやシルクロードやモンゴルの地方へ行くにしても、自分で行くより学校のルートで言った方が確実に安全だし、サンスクリット語にしても独学はほぼ不可能だから学校で学びなさいと先生が教えてくれた。

それでね、覚悟を決めたというか。
もうこの年なので、学位ははっきり言って関係ないです。新卒ではないので。
だから、卒業資格には拘らないんですけど、何年かけてもいいから、解明できるまで探究し続けよう、と思ったんです。
元々、イギリスに行く予定があったんですけど、なんかもうここが死に場所でいいわ。京都にずっといたい。

とパートナーにも話しました。
 「はぁ、ま、いんじゃないですか」という返事だったんですけど、正規の学生になるためには、2月の試験、受験しなくちゃいけないんで、いきなり今から受験生ですよ。(汗)

なんで山に登るんですか?と聞かれた登山家が、「そこに山があるから」と答えたかのように、自分の中に合理的な答えは全くないです。
でも、そこ以外の道が見えない。
ここまで自分がしつこく算命学にこだわる理由もよくわからない。
でも、のぼってみたい。この山を。

もういろんなことが終わろうとしてる。
個人レベルでも、世界レベルでも。
その流れのせいなのかもしれない。

で、今年まで色々あってたくさんの念がついてる、と言われたこともあったので、2〜3日前、京都で有名な強力だと言われる縁切り神社に行ってきましたよ。


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これまで色々と引き連れていた悪縁の全てを一旦断ち切り、新たな世界へ踏み出すために。
 ここって、中央に穴の空いた石があって、(写真真ん中)そこをくぐり抜けることで、祈願者は一旦死ぬんです。そして多次元世界に行った後、もう一度その穴をくぐり抜けて、この世に再生する、という儀式をして、それから祈願ふだをこの岩に貼り付けるという習わしがあるんですよ。

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明日、冬至ですよね。(12月22日)
来年の気に切り替わる時に、この一年で最も陽が短くなる。
つまり、一旦太陽が死ぬ。そして再生するんです。
一陽来復。

ま、意味自体は、そもそも縁を切るというよりも、自己再生なんですよね。
石をくぐり抜け、これまでの自分を一旦殺し、リボーンする。

冬至の意味から考えると、新しい自分、あたらしい世界に生まれなおしてくるって、この時期にピッタリじゃないですか。w
なんでそんなことを急にしたくなったのか、よくわからなかったんですけど、そういう時期だからだったのかもしれません。

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そう、明日、あなたは、
自分の内側に太陽を宿すが如く、内なる光を再び灯し直す必要があるんです。
 あなたの内側には、次元を超えた世界にまで光線を放つ、まばゆいばかりの光が備わっています。
 ぜひ、それを味わってください。

地球が新しい世界へ入ります。

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