新しい名刺

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あと数日で、気の上でも師走が始まりますね。来年の年の気が動き出すのは、後半からになりますが、今月は来年の気を生み出す土台になります。
 そして来月は甲子ですので、まだまだ水の気が働いていて、水が忌神の人はきついかと思いますが、一応、日本算命学的には、60干支の最後が終わり、次のタームの60サイクルの最初の干支の月が来るわけですので、師走に入れば、気的に、大きな切り替わりを迎える月になることが予想されますね。
 皆さんも、もう心の整理、心の準備はOKな状況でしょうか。

 私自身もさまざまな迷いは浮かび上がってくるので、まだ、今年の気が残るうちに、と、濁った気の昇華を目指して、アクションを起こし続けています。
 それに、来年以降、自分の生きる次元を大きく変えていく意思表明を兼ねて、改めて新しく名刺をデザイナーさんに注文しましたよ。
 なんかハッピーそうで良くないですか?

 来年は辰年だから龍、ってわけじゃないんですけども、現実面でも大きく生きる次元を変えたいですからね。
名刺が届いたら、近くの禅寺で祈祷していただいて、名刺自体にお守りの効果が発揮されるようにしようと思っています。

 さて、ここ京都は紅葉も、もうそろそろ終わりです。
夜のライトアップ最終日に、着物を着せて娘と撮影しに行ってきました。
彼女、禄存星があるので、めっちゃ着物着るのも写真撮られるのも好きなんです。観光名所に行くと、外国人が一緒に映ってくれないかと頼みにくるので、快くこたえてあげていますよ。

 今年は、せっかく京都に来たので、秋に入ってからすでに、日本髪を結って六回は着物を着せています。東京にいたときは着物を着ようものなら「今日は、何かあるんですか?」と、知らない人からもたびたび聞かれるので(最初は答えていたけど、後でそれが嫌味で言っているとわかり、しらけて答えなくなった。)京都でもないと、子供に普段、着物を着せることすらできません。

何かないと、着物を着ちゃいけないのか〜!!

 東京では、着物着ると着方や取り合わせから、何から、結構うるさくいう人たちがいるんですけど、京都では案外、そんなことはないですね。
 他県民からすると京都は着物目線が厳しいイメージですが、それは祇園とかそっちの水商売の方の話で、普通の京都市内では、むしろ着物着てくれるだけで嬉しいね、と職人さんもおおらかなんです。

 京都では、子供が着物を着て地下鉄に乗ったり、市街地に出ても、いいねぇと目を細められることが多く、観光客や外国人の子供も着物で出歩いているので、大して気にされません。

 私は、一応、着付けの資格を持っています。
着物を着慣れてくるとわかることですが、日本文化は、実は着物を着ないと本当にはわかりません。洋服ではなぜその作法なのかわからなかったことも、着物を着れば、「ああ、これはこういう意味があってこうなっていたのか!」とさまざまなことが、合理的で美しい形態であったことに気が付くことが多いからです。
 そして、普段から着慣れていないと着物に自分が着られます。
何年も前に銀座で外国人を連れて、居合の体験をさせに行ったとき、そこに居合わせた茶道と着付けの先生たちが、私を見て「あなたは長年着てるってすぐにわかる。ね、そうでしょう。」といきなりそう言ったことがありました。
 久しぶりに着たのですが、やっぱり見るひとは、すぐにわかるんだなぁ、とびっくりしました。

 イベントだけ着る着物というのは、実は新入社員のスーツみたいな状態です。浮いています。着物っていうのは、馴染んでくるくらいの回数を着ないと、やはり、ダメなんですよね。それはやっぱり、季節ごとであっても、10年単位くらいです。
だから、私は娘たちに小さくとも今、着物を当たり前に着せるんですよ。

この間、フランスの舞台を見た時も、二人は着物でしたが、観客のフランス人たちがとても喜んでいました。晴れ着は格が高いので、神社仏閣、オペラ、オーケストラ、海外のフォーマルなパーティ、どこでも着ていけます。
 だからこうして、着物が間近にある生活をしていれば、彼女たちは、大人になってもそういう場所に着物を着ていくと思います。

 七五三で買った着物は、そのまま、実はどこででも使えるんですよ。
そこから、海外の人とのコミュニケーションが始まったりもしますし、褒められるたびに、日本っていいな、って子供たちも思う。
 京都に越したおかげで、日本について、子供たちに生きた教育ができてよかったと私たちは思っています。

先月、下の娘は、京都市の裏千家茶道体験に着物で参加しました。
そこで、扇子を置いて、お辞儀をしたりする作法、器の柄を愛でる作法、を教わったので、ちょっとした出先で、そんなことをやるようになりました。
 そして、扇子の置き場から結界の概念を学びました。

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お寺や日本家屋の入り口の敷居も結界です。そして、帯の結び目も結界です。
京都の碁盤の目と表現される、真っ直ぐな区画の街も、あれは結界なのです。
 しめ縄もそうです。神社の鳥居もそうです。
この世とあの世を分ける。聖なるものと邪を分ける。人の領域と自分の領域を分ける。日本はワンネスを大事にしながらも、ちゃんとあちこちに見えない領域を意識した、境界線を大事にする「ケジメ」の文化があります。

そして、着物には着物にふさわしい振る舞いというのがあり、正座もそうですが、袂がはだけないように、裾が乱れないようにするには、どんなに浮かれていても、はしゃぎたくても、節度を持った心が必要になります。
 やりたいように、感情のまま流されて振る舞うと、着物は確実に着崩れしてしまうのです。(だから、成人式の美容室は、着方を知らない子のために何重にもガッチリ縛って、着崩れしないようにしたりするので苦しくなります。)

 娘たちは、着物を何度か着たあと、ボロボロになってしまった自分の履き物を眺め、よれよれになって着崩れになった自分の写真を見て、ようやく、そのことに気がつき始め、日本のお姫様になるには、まずは心の持ち方「中道」の精神が大事なのだと、身をもってわかってきます。

どちらにも極端に偏らない心に重心を置いた上での振る舞い。節度。
これは禅の思想にもつながってきます。

「着物を着たら、気持ちをパッと変えなくちゃいけないよ。」
と私は子供たちに、何度も何度も言い聞かせます。
 知り合いの関東の人に「お金があるからそういうことをやれるんでしょ」と斜めの目線を向けられたり、影で悪くも言われますが、そういうことじゃないんです。
その人たちは、見えないものを見ていないからそういうことを言います。
 着物を着せることは大事な教養をつけるための、必要な教育なんです。

 心の表れが、そのまま着物の美の維持になるということは、撮影のために七五三の時だけしか着物を着たことがない子供にはわかりません。

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 でも、当たり前に着物が身近になってくると、不思議なもので、いろいろなことに子供自身が気がつき始めるんですよね。そして京都にある古い史跡は、着物を着て訪れることで、まるでスイッチが入ったように、いろいろなことを子供達に伝えてくるんです。

 和室にしても、着物の袖が引っかからないように、余計な飾りがなく、プレーンですよね。戸口にはノブがありません。和式便所は、着物を着る人にとって非常に使い勝手が良かったトイレのデザインです。
 なぜ日本の伝統的なものがそういう形になっているのか、という理由が、着物を着るからこそ、誰かに聞かなくてもパズルのピースをはめるように自然とわかってくるんですよ。

 東京はあちこちがすでに現代仕様になっているので、もうそういう場所はないですので、子供が着物で歩き回っても、ただ歩きづらくて不便なだけだと思います。やっぱり、ここだからこそできる教育があります。
 また、京都市全体が学ぶ子どものために、さまざまな機会を提供してくれているということもありがたく、影響は大きいです。

 子供に着せてる着物、アンティークですが、確か四千円くらいで買ったような気がします。帯は980円。でも正絹です。
 出品者は古いもので、と心配していましたけど、現代のアイドルがデザインした花柄のポリエステルと洋柄といったような着物は、全く着せる意味なし。

 古典でもいいので、古い着物を探して、メルカリで購入すれば、1万円も行かずに買えたりもします。着物を日常的にきる子供は少ないので、七五三の後使わなくなった着物が投げ売り状態で、正絹の着物(シルク)がいくらでもあるんですよね。多少の汚れは気になりません。

 そして、正絹を着慣れていると、シルクを纏うことは、日本の気候の中でいかに調湿性が良くて快適かを子供は体感でわかります。ポリエステルと違って軽く、動きやすいけど、布が必要以上に滑らない。
 そして、染物の職人は、着物を着たときに一番その人の顔を引き立てる位置に柄を持ってくるように意匠を計算しています。仕立ても然り。
 今時の洋風プリントの着物はそんなこと考えられていませんので、実際に着物を着た人がどう見えるか、ということを比べれば一目瞭然なのです。

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 上の娘は、最近自分が着物を着るからこそ、西陣織の職人さんの技術の見学に真剣になり、養蚕や機織りについて興味を広げていき、着物周辺から日本文化理解を深めています。

バレエは西洋の総合芸術と言われます。バレエを見れば、クラシック音楽も衣裳デザインも舞台美術から、総合的に全てを味わうことになるからですが、
 同じように、着物は、着物を中心として、総合的な日本文化を知るための装置になっているんです。
 だから、日本人が効率を求めて、団塊世代以降、日常着から民族衣装を捨て去るに従い、和の心が自然に伝わっていかなくなったのは当然のことだったと思います。今は、皇室の皇女ですら、着物ではなく、ドレスです。
もう、大和の心は、ボロボロ、瀕死状態です。
 むしろ韓国人たちの方が、チマチョゴリを着ているのではないでしょうか。

 日本でもはや着物のニーズがないため、食べていけない職人たちは、貴重な技術を継承するための後継を持つことができません。職人は高齢化が進んでもいます。「俺の代で終わりだけどね。」何度聞いたかしれません。
 手仕事でこれだけのレベルのものにしてしまった日本人の文化レベル・技術完成度を、現代日本人自身が評価していないのです。

 モンゴルやチベット社会は、中国共産党に文化を潰されてしまいました。
歴史を一旦失った国は、本当に手痛いです。
取り戻そうとしても、戻せないです。
 古くなったからもう必要のない技術、困らないでしょ、という以上に、精神的なレベルで、祖先から伝わるエネルギーに繋がれなくなり、国民が自分達のルーツとアイデンティティをしっかりと保つことができなくなるのです。
独自性が見つからなくなり、表面的な生き方しかできなくなるのです。
アジアの植民地がそうなってもいます。

今、私は、大学で仏教を基礎から学んでいますが、やっぱりこの国は大乗仏教によって作られた、と言っても過言ではないと思い始めています。
 意識しないほど深いレベルで、日本には仏教の影響力が染み付いている。
 特定の宗教者でなくても、それが日本人のアイデンティティの一部になっているんです。そのことに気がついたとき、いかに京都が大事な町であるかを痛感するのです。勝手に商業地や不動産投資の場所にしてはならない、日本人の魂の置き場所だとわかるのです。

 京都人が話す言葉は、御所、天皇や公家の言葉を庶民が真似して使ったものから始まっていると言われています。つまり、京都人の言葉のニュアンスやイントネーション、独特の言葉、言い回し、全て、1000年前の日本とつながったものなんです。ただの地方都市の方言とは訳が違います。
 (それは名古屋もそうではないかと思います。豊臣秀吉や織田信長や徳川家康なども名古屋弁を話してたのだと思いますので。)
 言葉はコンセプトですから、言葉が消えれば、コンセプトも消えてしまいます。だからこそ保存していかなくてはならないし、これは幼い頃から音を聞いて覚えて育ったネイティブ京都人にしか、完璧に再現できない音とイントネーションなんです。

 ですが、今はその京都弁ですら、危うい状況にあります。
京都人がみんな標準語よりになっていて、もう京都のおじいちゃん、おばあちゃんたちの使う京都弁がわからない、話せなくなっている若い人たちが多いそうなんです。僅かに有志の保存会が発生しているくらいです。

 日本の政治も今やボロボロですが、文化もこの通りの現状なんですよ。
私も日本の歴史から学び中ですが、日本の本当を次の世代の子供たちにどこまで伝えられるだろう、と思います。ほんの僅かな子供たちだけが、本当の日本を知っていたってダメなんですよね。

 知識の上での理解ではなく、日本の精神そのものを受け継いでいくためには、どうしても「着物」を着ることが当たり前の生活に子供を近づけないとならない。大事なものとして衣食住とはよくいうけれど、ただ体温調節をする以上に、自分が身に纏うものは、心を作ってもいるんです。
 肌に触れるものは、脳に触れている、とも言います。化学繊維と天然素材の違いをわかった上で場に合わせて、服の素材を選べているかどうか。
 そういうことが心に与える影響も、非常に大切なんですよ。

着物を着ていれば、麻と綿の違いも、絹とウールの違いも、全く違う体感を自分に与えてくることに気がつくようになります。
 洋服では、これは絶対に学べません。
 とはいえ、日本舞踊・茶道は高い習い事ですので、本格的に学ぶこともできにくいし、どこまでやれるかはわかりませんが。

 かつて、インド聖者は未来を霊視して私たちに、こう言っていました。

 日本の中に残されている、縄文時代以来繋がってきた文化・文明は、この後の風の時代、世界に必要とされる知識・生活様式になっていく。
 日本人はこれを保存して、のちに世界に広めていくことで調和を生み出していき、そういう形で世界に貢献していく。
 だから、産みなさい、子供を増やしなさい。
 そしてその子たちに日本の知恵を託しなさい。




 今、本当に必要なのは、詰め込み式の早期教育ですかね?
プログラミング技術のマスターですかね?
アプリ開発ですか?
お金のある子供たちだけ日本語以上に英語が話せるようになってますけど、中途半端な英語ネイティブにはなれても、日本語のニュアンスがわからないとか、漢字が読めない子にすることですかね?

もちろん完全に不必要とは思いませんが、この国内の状況を眺めた上で、優先順位としてどうなのだろう?と思うんです。

 今、英語ネイティブの感覚に近い上の子に、和の心を教えるのは、非常に非常に困難なことだということを私は理解しつつあります。日本語の幼児施設に通った下の子の方が、むしろ阿吽の呼吸で、何が言いたいかを理解します。
 そういうのを思うと、今、意識的に文化を学ばせて、根っこに大和魂をしっかりと据えることの大事さをより強く感じます。
 日本人の悪いところである、同調圧力や全体主義とかそういうことではなくて、日本人が何を大事にして生きてきたのかというルーツと子供を生活の中でちゃんとつなげてやることです。

 現在、着物は、神道や仏教関係、伝統芸能、茶道、といった世界でしかニーズがありません。成人式もレンタルで借りておしまいです。
私、思うんですよね。小学校から、民族衣装を着る訓練するべきだと。
 学校の教材として、全ての小学校で全員に貴重品のパソコンやiPadを貸与できるならば、同じお金で子供に学校から着物を貸与すればいい。
 パソコンの使い方なんて、中学校からで十分なんですよ。
 そして自分で民族衣装を着れる子供が増えるだけで、着物を中心とした、日本文化や技術の全てが大きく底上げされて、結果的に食える人たちが増えるので、日本文化が保存されていくんですよ。
 着物を着る理由がなければ、人はきませんから、国が戦略的にわざわざ作るんですよ。
 帯結びや髪結の技術も大和時代から膨大にあるのに、もはや継げる人も少ないので、もうすぐ廃れます。
技術に関して、書籍資料だけ残っていたって、誰もみやしません。

 ユーズドの着物は、五千円や1万円でフツーに買えます。クリーニングも着物ショップだと、三千五百円くらいでしてくれるところがあります。
ポリエステルなら、自宅洗濯機で洗えます。
 別に金持ちじゃなくても、やろうと思えば、自分なりのレベルで着物を楽しむことはできるんですけどね。
 京都にはいっぱい、ユーズドの安い着物でてますよ。
千円だけど、綺麗なやつ。
骨董市もありますしね。

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