マスターからモンゴルで言われたこと

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もしも、自分の意識次元をここまで引き上げられなかったならば、本来は、過去に遡ってモンゴルにまで帰ることはなかったかもしれない、と思う。
でもモンゴルに行ったことで、自分のことが実感を伴って色々とわかってきたことは多い。

その一つのエピソードとしてあげるならば、一番大きいのは食文化だと思う。

モンゴルで、僕がモンゴル人と話していた時、
「日本の魚とか刺身は確かに美味いけど、そして魚が食べられないということはないけど、だからと言ってあえて魚を食べようという気持ちにはならないよなぁ。やっぱり、肉、何だよなぁ。」
と言ったら、モンゴル人は、そうそう。と笑顔でうなづいて共感していた。

肉は体に悪い、とベジタリアンの人たちには言われる。
肉は血を汚す。肉主体だからこそモンゴル人は平均寿命が短い、と言われる。しかし、そうした西側の健康研究に、モンゴルに行ってから自分は疑問を持つようになった。
 そもそもだけど、日本の気候は大変恵まれている。
モンゴルはひどい時は、冬、マイナス五十度にもなる過酷な環境である。
夏でも天候が変わると、激しい温帯低気圧のような嵐に出くわすことになる。
そうしたパッキリと顔の違う極端な気候に対応していかなくてはならない人間の肉体と、常に気候にグレーゾーンが存在し、温暖で湿度があり、選択肢の多い環境に住んでいる先進国の肉体を「食べ物」と言う括りだけで、平均寿命の短さ・長さを結びつけるのは、完全に無理がある。
日本的な食生活をしていても、この京都以上の過酷な寒暖差を味わっていたら、肉体に負担がかかることは間違いなく、それを肉食だからだ、と健康研究家たちが結びつけるのは、西側先進国の穿った目線なのではないか、と思うようになった。
 この「ベジタリアンは健康」と言うのですら、タンパク質を摂るために虫を食わすように仕向ける流れからきているのではないか、と思えてくる。
健康にとって、野菜の重要さは、確かに比重は変わらないが、モンゴル人が肉食中心だから寿命が短いと考えるのは、やはり違うと思うんだよな。

大体、モンゴル人は都会でなければ、簡単に高度医療を受けられるような場所に住んでいないことも多く、医療水準だって日本のそれに比べれば、差は明らかなんである。だから子供もつい最近まで半分くらいが幼児期に死んでしまったりしていた。
 一時期、厳格なベジタリアンをやったことがあるけど、貧血で自分は体調がおかしくなり、肉食に変えることで復活したこともある。やっぱり、体質に沿った食生活かどうかと言うのが、本質なんじゃないだろうか。

で、肉食モンゴル人であることを打ち明けると、ピカチュウに、
「でもお前、川魚とかは好んで食べるやんか」
「それは一体なぜなんや」と
聞かれて、確かにそうやな、とおもったんだよね。

そしたら、先日、北京都へ行った帰り立ち寄った綾部のファミリー牧場で、ジビエを食べる機会があって、気づきがあった。
ジビエっていうのは、山の保護のために、鹿の頭数を調整する意味合いもあって、京都府の許可証をもらっている地元の猟師が取ってきた鹿肉(実際は鹿以外の肉も含めた獣の肉)のこと。

ただ、そこのジビエは、普通のジビエと違って、血の処理の仕方が違っていた。獣の血というのは、どんな死に方をするかによって、死に際にその成分が変わる。恐怖や苦痛、葛藤で死ぬと、そのストレスホルモンが血中に発生して、それが肉に回るので、傷みやすくなり、肉の味が悪くなる。

だから、畜産農家では、なるべく死の恐怖を味合わせないように、牛や豚などを殺すとき、額のまんなかに打ち込み、一発で即死させるようにするようにしている。でも、屠殺場に行く前の彼らはとっくに気がついていて、悲しい声をあげるのだそうだ。

ただ、この殺し方は、確かに肉の品質を保つには良いのだろうけど、動物の魂ということを考えた場合は、動物視点で見ると自分が死んだか、死んでないのかわからない状況を作るわけなので、成仏という考え方でいうと、家畜が浮かばれない方法だと思うんだよね。

 一方、これに対して、モンゴルにいる遊牧民たちは、魂の存在を信じているので、そういうことをしないんですよ。家畜を屠殺するとき、小さな穴を開けて、そこから手を入れ、大動脈を指でちぎり、動脈から奔出した血液を胸の空間にためるんです。だから、羊は苦しむことなく、鳴き声一つあげずに静かに息を引き取ります。その後、モンゴル人たちは、心臓が止まったのを確認した後、出血死した羊の皮をナイフではぎ取り、皮と体の間ににぎりこぶしを押し込むようにして、丁寧に剥いでいきます。そして、万が一、血が落ちて大地を汚さないように、剥いだ皮を敷物のように広げ、解体していくんです。

 モンゴル遊牧民はシャーマニズムから、動物霊の憑依の影響もよく知っているし、また実益を考えても、苦しんで死んだ家畜の肉の傷みが早いことや食べた人間に悪い影響を与えることを経験で知っている。だから、大地を血で汚さないという言い伝えと共に、この伝統的な屠殺方法を守ってきたんだよね。

 綾部のファミリー牧場で出されたジビエも、まさに同じような配慮がなされている点で、特別なジビエだったんですが、確かに味が全然違った。
お店の人によると、即死で死んだ鹿をいかに俊速でストレスに塗れた血の影響を他の部位に行き渡らせないように俊敏に処理するか、という点で違うと言うことでしたね。

そして、そういう鹿肉というのは、臭くないんです。
「よくジビエ料理出されると臭いって言われるんですけど、それは屠殺方法が間違ってるからなんですよ」って牧場の人が教えてくれました。

昔、知ったかぶりで若い人たちを捕まえては、自説を振りかざす、近所の東京のインテリおじさんは、「何言ってんだ、ジビエは臭さを楽しむんだ。」と僕に言いました。
 そして、そのおじさんは、子供づれの屠殺体験ツアーに対して、「今の世の中、他に食べるものが十分あるのに、わざわざ生きている生き物を殺してまで食べることに何の意味があるのか、それは無駄な殺生で、生き物がかわいそうだ」、という僕に対して、

「それが現代人の甘さだ、命をいただくことを学ぶために解体現場を見せるんだ」って言ってましたけど、僕はどうしても納得いかず、自分の前世が遊牧民であると知る以前から、そのおじさんの主張には兼ねてからずっと違和感を覚えていたんですよね。

そりゃそうですよね。臭いということは、屠殺方法が間違っているということ。そして、命をいただくことの意味を学ぶならば、獣に敬意を払った殺し方をしなくてはならない。その屠殺方法ができるのは、遊牧民だけだからです。

 そして、遊牧民たちは、厳しい冬の寒さの中では食べ物が手に入らないので、越冬のために仕方なく生き物のサイクルの中で、屠殺を行います。
 だから、野生の動物たちと同じように、自分たちが必要とする量以上の生き物殺しは行いません。
 モンゴル遊牧民視点では、屠殺を教育だと言ってエンタメにして喜んでいる文明人の行為は、正直、意味がわかりません。

 家畜はファミリーであり、財産です。チベット仏教の影響もあって、本来は、お金を出してくれる相手を喜ばすために、安易に命を奪うことを心の中でよしとしている遊牧民は基本的にいないと思うんですよね。

 モンゴルツアーには、よく羊の解体という項目もあるけど、偶然、その人が遊牧民の冬の備えの現場に居合わせたならともかく、同じ仏教ルーツを持つ日本人には、ただ楽しみたいから、と言って、殺しをさせる、そういうツアーを選んで欲しくないな、と僕は思っています。

 だから命の尊厳を教えるんだ、と言って、猪や鹿を子供たちの目の前で屠殺する人たちは、悪いけど(前世が遊牧民の僕から言わせてもらえれば、)屠殺の時、子供たちに、死を前に苦しむ家畜の姿を見せているとしたら、実際は命の尊厳など何も教えられてないんですよ。

 苦しむ家畜の姿を見せて、「目を背けるな、これが弱肉強食の世の中だ!誰かの犠牲のもとに、生き物は生きている!」
とそのおじさんは子供に言ったそうです。 
 本当に、「嗚呼、昭和の精神論」ですよね。
ばっかじゃね〜の!って言いたくなります。

 遊牧民は、みんな温厚で優しいですが、一旦怒ったら激烈に怖いです。
僕もそういう性質をめちゃめちゃ持ってます。
 どうしても倫理的に許されないことをしたら、大魔神のように急に顔を変えると思います。それはモンゴルの天気と同じ。

で、その正規の方法でジビエ料理をいただいた時ですね、焼いて食べたら、なんと川魚の味がしたんですよ。
そして、岩塩が一緒に添えられてて、それをつけて食べたら、もう、あゆの塩焼きとおんなじ味だったんです。

あ〜〜〜〜〜!!
と思いました。鹿肉はそれまで食べたことがあるけど、正規の屠殺方法で食べたことはなかったんですよね。

(※ニジマスやあゆの塩焼きと同じ味だ、と感じたのはあくまで僕の主観なので、同じように感じるかどうかは、わかりません。)

モンゴルにはトナカイがいるし、内モンゴル自治区には、ニホンジカの群れもいるようで、12世紀の西の遊牧民も鹿をとって食べていた可能性があります。
赤マグロのような魚っぽい魚や大半の魚は苦手なのに、焼き魚の白いところとか川魚のようなさっぱりした白身の魚は食べられるのは、このせいか〜!
と大発見した次第です。

今世だけ見たら、好き嫌いの多い人間だと思われてしまうと思いますが、苦手な理由というのは、やっぱり今世だけで語れるものではないんだなぁ、と思います。
本人が嫌だ、と思うものを、倫理観だけで子供に強要するのが、昭和の精神論。苦しい思いをした昭和の子供は多かったんじゃないでしょうかね。

インド聖者の言ったように、この次元だけで物事を判断してはいけない、ということの裏にはこう言ったことも含まれていて、好き嫌いして食べない子供には、言語化できないレベルで食べられない正当な理由があるかもしれないんですよね。

例えば、前世が厳格なイスラム教徒であった子供なら?
豚肉が食べられないかもしれません。また正しい方法で処理していないという理由で、ハラルなら食べられるけど、そうじゃなかったら、食べられない、という奇妙な好みを見せるかもしれません。

そうであった場合も含めて、風の時代の子育ての常識は、「正しいからと言って子供の嫌がることは強要してはいけない」ということなんですよね。

家族は、ソウルメイトですが、家族をやっている魂がみんな日本人だけをやってきているわけじゃないんです。
前世を見たら、多種多様な民族、文化で構成されているかもしれません!

僕は一品料理でも全然構いませんが、(遊牧民は、火元が一箇所しかないので、何品も同時に作れませんし、水も少ないので皿をいくつも出して洗うようなことをしたくないという意識が無意識レベルにあるからです。)一方、ピカチュウは、幾つもの皿を出して、さまざまな料理を並べるのが大好きです。
(彼はパスタが好きで、ファミリーを大事にしていて、イタリア語の発音が素晴らしいと誉められた経験があり、精巧な工芸や美術とか、舞台芸術が好きなので、もしかすると前世はイタリア人かもしれません。)

彼からすると、僕はやたら感性が野蛮に見えていて、注意したくなる事項が多いのかもしれませんが、それはもしかするとイタリア人から見たモンゴル人かもしれないわけですよね。
 一方で、僕からすると、発生させた時から終わりの時までくるくる回る輪のように後始末までの責任を負うべきと固く信じている考えによって、イタリア人的遊興に流された散乱生活は、何だか許し難い。
...みたいなことがあるかもしれません。w

そしたら、お互いの正体がわからない以上、パートナーを責め立てても、どうしようもないんですよね。本人自身だって、自分が何者であるかを知らないわけだから、説明できないんですもん。
 揉めること自体が無意味かも知れませんよ。w

さて、いろんなことを気づかせてもらったモンゴル研究旅ですが、ここまで導いてもらって、モンゴルの地を踏んだら、ガイドから何かメッセージがあるかもしれない、と思っていたんですが、モンゴルで僕のスピリチュアル・マスターが滞在中の明け方、僕に伝えてきたことは案外とあっさりしたメッセージでした。

モンゴルのスピリチュアルな存在と僕のマスターが話しているのを僕が聞いている、といったシチュエーションだったんですけど、

「この子(僕のこと)はね、こうやって、人が背負うべきレベルを超えた心労を子供の頃から幾つもの人生で、いつも背負ってきたんですよ。だから、こんなに心臓が痛むんですよ。人の心配事を正面から背負ってきたからね。」
って言ってたんです。

あ〜そうか、って思いました。
 遊牧民のリーダーとして活躍していた時代も、僕は部族を背負ってて、人に見せない心労がたくさんあったんだな、と思いました。
そして、今、この仕事を通して同じことをやっているわけで。

それでその時、ちょっと考えましたね......
自分は、この心労というテーマを乗り越える必要があるから、今があるんじゃないかってこと。それは今世では抜けられてきてはいるけど、前世から溜まったものがこの風の時代、解放を起こそうとしている。
だから、体がこんなに辛いのではないか、と。

そして、算命学という題材を通して、探究の旅を続けることそのものが、僕の選んだ今世のあり方、存在意義だという理由も何だかわかったような気がするのです。

僕はモンゴルでも人の相談に乗り続けた人生だったけど、死に際にこう思ったんじゃないかな、疲れた..やっと楽になれる。心配から解放される。って。
だからこそ、今世は、人の相談に乗って、他人の人知れずの心の苦痛を一緒に背負うのではなく、相談に乗ることが負担にならず、自分と相手の喜びになるようなそういう生き方をしたいと思ったんじゃないだろうか。

それで、僕は、自分に対して、「お疲れさん」って言ってみた。
ちょこっと涙が出た。

過去のモンゴル大陸の遊牧民の僕に対して、リーダーとしてその苦労を人に見せられなかったであろうことを思い、ご苦労様の気持ちを伝えてみた。

 心臓とその周りが子供の頃からずっと痛かったのも、心労からだと考えれば前世病みたいなもので、それだけのものを過去の自分が背負ってきたからなのだろう、だから今は社会的責任のない立場を選んで生活しているのだろう、とも思った。

そうしたことが自分以外にも絶対あるはずで、今世では、意識に登らないものや理由にならないものが、今一気にワッとどの人にも吹き出しているのだから、今辛いなぁ、誰か救いを!とか思ったとしても、そこに意味を見つける必要もないと思う。だって、わからないんだもん。仕方ないよね。

ただただ、自分を労わる。自分の心地よさを大切にしてあげる。
それが必要な時、だと思う。

実学算命学視点で言うと、卯年の今年、その対誅関係にある酉の月は、今年のエネルギーを硬直させる動きを見せるだろうと予測される。
新しいものを生み出そうとしてきた力が一時的に抑え込まれ、整理させられるだろうと思う。

家の片付けをしている人ならわかるけど、片付けって、どれだけエネルギーのいることか!そこに備えて、体力気力、蓄えてほしいですね。

僕も、9月からもう大きな環境変化の芽が出ていますので、今本当に最終準備です。さて、プロファイリング再開クリックを押そうとした日、軽い目眩を起こして、調べてみたら、脳の中枢神経と末梢神経にコロナ変異ウイルスらしきものが入り込んだことが治療機関で判明したんですよね。
 びっくりしたけど、原因がわかってホッとしたと言うことがあって、現在療養中です。

 今年始まりから続く体調の悪さがそこからきていることや、それが呼吸器中心に今も広く体を蝕んでいたことが判明したと言うのも、新しい人生の備えの一環だと思っているんですよね。体のデトックスが必要なんですね。

 感染リスクがあるのかどうかがわからないので、対面プロファイリングはもとより、念の為、ソーシャルディスタンスを維持しながら生活中です。
ここで生来からの虚弱体質を徹底的に治してしまおうと思っています。
焦らず、生きる。
これが今の自分に必要なバランス。

 再開宣言しながら、申し訳ないですが、よろしくお願いします。

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