第十六回 精進 ~努力~

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コラム
仏教で勧められる様々の「善い行い」を、お釈迦様が私たちに分かりやすく六つにまとめてくだされたものを「六度万行」(ろくどまんぎょう(六波羅蜜))といいます。

今回は「精進」です。
精進とは、聴き覚えある方も多いのではないでしょうか。
砕いて表現すれば「努力」ということです。

私たちの日常とは努力の連続ともいえるものです。
私たちは否が応でも、嫌でも精進努力なくしては生活すらしてゆけません。
批難ではなく、路上で生活をなされておる方も、それ相応の精進をしなければ生きてゆけないでしょう。たとい街を離れても、山では山のサバイバル精進をせねば生きてゆけません。
仏教でいう精進とは、仏教の目的とは、今現在の生きている時から、たとい肉体が滅びた後も永遠につづく、幸せの身に成ることであります。
生きている時に”その身に成る瞬間”というものがあり、それを浄土真宗では「平生業成」(へいぜいごうじょう)といいます。「平生」とは「生きているとき」「業成」とは「業事が成弁する」ということで「人間として生まれてきた目的・本懐が、生きている今実現する。」ということです。

また、ここが最も大事なのですが、実現したならば「ハッキリ」するのです。
何がハッキリするかと申しますと、生きている今、未来永遠の幸せの身となった暁には、肉体の死後は必ず「浄土に往生する」(極楽浄土に必ず生まれる)と、生きている今からハッキリするのです。
経験していない、死後のゆく先が、がハッキリ知らされる、ということです。
そのためには、是非とも続けて阿弥陀仏のお約束(本願)をお聴聞されてくださいませ。

話がそれましたが、これが仏教の目的です。その目的に向かって精進するということになります。
しかし、浄土真宗にお詳しい方であれば次のように思われるかも知れません。「浄土真宗は阿弥陀様におまかせするのみであって、精進など必要ないのだ!」と。おまかせするというのはそのとおりなのですが、私たちはそう簡単に「阿弥陀様におまかせ」するほど殊勝な心は持っていないのです。また、そのことにまったく気づけないほど、どうしようもない自惚れの塊りなのですね。自覚があってもなくても、です。

ですから、諸善をまとめられた六度万行のうちの一つの「精進(努力)」も、私たちの自惚れ心をも、そのまま南無阿弥陀仏の「真実」に救い摂る、阿弥陀仏「方便」なのです。
阿弥陀仏が阿弥陀仏の方で、お救いの手掛かりとしてくださるのです。
阿弥陀仏のほうで、そのようにしてくださる、ということです。

浄土真宗の人も、日々の精進(日常の中での色々の努力)は当然行われるものであり、当然勧められるものなのであります。



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