プログラムの最後の最後でようやく気が付いたことを書いて,このタイトルでの記事は終わりにしたいと思います。
それは,「すべては自分自身で選択ができる」ということ。
初めてコーチングに触れたころの私は,このことがあまり腑に落ちていませんでした。
コーチングと出会ったのは,子どもを産んで,人生で一番幸せだと感じると同じくらい,自分自身の人生をままならないものだと感じ,絶望していた時期でした。
これまでの人生では,自分で決めた目標を達成して,それなりに結果を出すということをやってこれたけれども,「お母さん」になったとたん,急に,何もかもが自分自身の努力だけではどうにもならないようになってしまったと感じていました。
子どもといるのは本当に,心からの喜びであるけれど,一方で,突然,自分が世の中からまったく必要とされないようになってしまった,という辛さも感じていて,自分自身でも,自分自身の感情に折り合いがつけられず,混乱し,苦しみ,絶望していました。今が人生で一番の至福のときだと感じるとともに,自分自身の力だけではどうにもならない何かに押さえつけられている怒りや悲しみにも翻弄されていた,そういう時期でした。
そんなときに,「自分自身のあり方は自分で決められる」と言われても,今自分が暗いところにいるのはお前のせいだ,お前の苦しみはお前に責任がある,と言われているようにしか聞こえなかったのです。
確かにそうなのかもしれないけど,まさに今,自分ではどうにもならないことに苦しんでいるときに,「それを決めているのは自分」と言われても,責められているようにしか感じられませんでした。
でも。
「全て自分が決められる」ということは,「正しい選択をしない」ことを責める言葉ではなくて,
もっと「自由」でいてもいい,どんな選択をする自分でいてもいい,ということなのだな,
ある種の大きな「赦し」のようなものなのだな,と今は感じています。
プログラムの最後の方で,「自分がありたい姿」を思いきり体験しつくす,ということを実践しました。
私は,そうなりたいという自分として,大きな炎のように,温かくて明るい存在として,そこに集まってくる人に何かを与えられる,そういう自分でありたいということを,全身を使って体験し,そういう自分を味わい尽くしました。
そのとき,たまたま,前の自分であったら,自分に落ち度があったんじゃないか,相手に嫌われたんじゃないかと気に病むような,あるいは相手に理不尽な怒りを抱いてしまうような,そういう出来事がありました。
しかし,そのとき相手に対しても,自分の中でも,負の感情が一切生じなかった。
これには自分でもびっくりしました。
今,相手は私のことを必要としていないのだな,
怒りも悲しみも何にもなく,ただ,それだけ。
その時,ようやく,本当に「自分自身がどうありたいか」は,自分で決めることができるのだな,ということを,心から理解することができたのでした。
まだまだ私は未熟者なので,コントロールできない感情の奔流に足を取られることも沢山あります。
でも,本当は,どういう自分でいたいかということは,自分自身で選択できる。
怒りも悲しみも感じていい,負の感情に振り回される自分を否定する必要はない。
それでも,最終的には,自分自身の負の感情からすら,自由になることを選択することができる。
それができる,自分自身の力強さを信じていい。
なんでも頭で考えがちな私ですが,本を読んだり人から聞いたりして学ぶのではなく,全身で体験することでしか得られない実感だったなあ,と,今は,そんな体験をもたらしてくれた全てに感謝がいっぱいです。
コーアクティブコーチングの大切な礎の一つに,「People are Naturally creative, resourceful, and Whole."」 =「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」というものがあります(「NCRW]と略して表現することもあります)。
コーチングを受けた一番最初から説明された言葉でしたが,私にとっては,心から納得できるような,受け入れがたいような,難しさを感じる礎でした。
自分には欠けているところがあって,それを正すために努力する,というのがこれまでの人生のスタンスだったから。
ただ,今回の気づきで,「NCRW」への理解を,少し深めることができたようにも感じています。
怒りも悲しみも憎しみも喜びも,全てが赦されている。
そのうえで,自分には選択することができる。
まだまだ未熟な私ですが,奥深いコーアクティブコーチングの学びの旅の最初のステップに,踏み出せたのかなと感じています。